音楽プロデューサーとしてCHEMISTRYやいきものがかりの結成、デビューなどで手腕を発揮する一方で、半世紀を超えるアマチュア野球観戦により野球の目利きでもある一志順夫。連載コラム「白球交差点」は、彼独自のエンタメ視点で過去と現在の野球シーンとその時代を縦横無尽に活写していきます。

江川、KK、野茂、岡田、工藤…、印象深いドラフトドラマの数々

 間もなくドラフト会議が開催となる。

 メディアでは今年も「宗山ドラフト」とか「大学BIG4」などという惹句が既に踊っている。昨今は番外編含めた地上波放送が祝祭感を煽っていて、そのこと自体を批判する気はないが、ドラフトの本質は将来を見据えたチーム編成の戦力基盤強化に他ならないので、やはりその答え合わせはどうしても5年後10年後になる。

 筆者が初めてドラフトに関心をもったのは、島本 講平(箕島‐南海=ドラフト1位‐近鉄)、湯口 敏彦(岐阜短大付=現・岐阜第一‐巨人=ドラフト1位)、佐伯 和司(広陵‐広島=ドラフト1位‐日本ハム‐広島)の「高校投手三羽烏」が注目された1970(昭和45)年であった。佐伯は広島から日本ハムに移籍後もある程度活躍したが、島本は打者転向、湯口に至っては不幸なことに3年後この世を去った。ちなみにこの年のドラフトの出世頭はヤクルト3位指名の若松 勉(北海‐電電北海道)である。この時代はプロ-アマ界の断層が深く、情報収集の精度も低かったため、拒否組も多数、怪我や疾病をかかえたままの入団など、調査不足も甚だしく今では考えられない状況だった。それに比べれば、試行錯誤と度重なる制度改変を経た現代ドラフトは、極めて合理的かつ洗練された形に行き着いたとも言えよう。

 当時ドラフト会議は午前中に開催されていて、中継もなかったので、その結果は先頃廃刊が決まった「夕刊フジ」が最速だった。その後、電話での音声ニュースサービスが始まり、学校から一目散に帰宅して受話器にかじりついたものである。昭和50(1975‐84)年代に入るとようやくラジオ中継が実現したが、会議そのものはまだ午前中開催、学校をズル休みして聞き入った。1978(昭和53)年の江川(卓、作新学院)ドラフトの際は、学校休めず致しかたなくトランジスタラジオを持ち込んで授業中こっそりと聞いていた。

 TV中継が始まったのはいつの頃か? 1985(昭和60)年のPL学園・KK(清原和博=西武ドラフト1位、桑田真澄=巨人ドラフト1位)コンビが注目を集めたドラフトの時はまだだった記憶があるが、平成に入って1989(平成2)年の野茂 英雄(成城工‐新日鉄堺‐近鉄‐大リーグ・ドジャース他)が8球団に指名されたドラフトは間違いなくTVで見ていたので恐らくこのあたりからのことなのだろう。いずれにしろ、今のようなショーアップされた「エンターテイメント・ドラフト」とは隔世の感がある。

 ドラフト史そのものに言及すると字数が足りなくなるので避けるが、巨人が1位指名した小林 秀一(八代第一=現:秀岳館)‐愛知学院大学)が入団拒否した1973(昭和48)年ドラフト、岡田 彰布(北陽=現・関大北陽‐早稲田大‐阪神)を相思相愛の阪神がクジを引き当てその強運ぶりを示した1979(昭和54)年ドラフト、根本マジックで工藤 公康(名古屋電気=現・愛工大名電‐西武‐ダイエー=現・ソフトバンク‐巨人‐横浜=現・DeNA‐西武)を強行指名した1981(昭和56)年ドラフトは特に印象深かった。

我がDeNAはあえて宗山を指名しても。投手では金丸、中村に加えて篠木を推したい

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