決勝の熱気に包まれながら、両校の輝かしい歴史に思いを馳せる
横浜と東海大相模の決勝戦は、実力伯仲、予想通りの好ゲームで、球場全体の熱気も回を追うごとに増してくる。横浜も東海大相模も1、2年生が主力で、横浜先発の147㌔右腕・織田 翔希投手(1年)、ショートからリリーフにまわった池田 聖摩内野手(1年)、東海大相模の福田 拓翔投手、金本 貫汰内野手、中村 龍之介外野手(ともに2年)などは将来性豊かで楽しみだし、暫くはこの両校が覇権争いを展開していくことに間違いなさそうだ。
最後は8回裏の東海大相模の集中打で勝負あったが、最終回、横浜の主将・椎木 卿五捕手(3年)が根性でセンター前に運びサイクルヒットを達成、最後の力を振り絞ってメンバーを鼓舞する姿は鬼気迫るものを感じた。このあたりはプロ向きの性格をしているかもしれない。
灼熱の太陽のもと頭がクラクラしながら観戦を続けるうちに、なぜか遥か昔の両校の記憶が脳裏に去来し始める。
1970年東海大相模、1971年桐蔭学園の初優勝、1973年横浜の選抜初出場Vで戦国時代に
1970年夏の甲子園大会。東海大相模はのちにプロ入りするような傑出した選手はいないものの、勝ち進むごとに地力をつけ勝負強さを発揮していく。印象的だったのは湯口 敏彦(巨人)を擁する岐阜短大付属(現岐阜第一)との準決勝。湯口 敏彦は箕島(和歌山)の島本 講平(南海‐近鉄)、広陵(広島)の佐伯 和司(広島‐日本ハム)とともに高校三羽ガラスと謳われた速球派左腕。早くも2回戦ではその島本との直接対決が実現し、TVの前で食い入るように2人の投げ合いを観ていたのを覚えている。結果は湯口に軍配が上がり、その勢いで決勝までいくと思われた中、東海大相模が立ちはだかる。
筆者はその当時は都民だったので東海大相模には特段思い入れはなく、むしろ心情的には孤軍奮闘の湯口に肩入れしていた。当然昭和のエースゆえここまで一人で投げ切ってきたわけで、疲労もあったのだろう、最後は2対3のサヨナラで力尽きた。悲運のエースという称号がピッタリのピッチャーだったが、今思えばこの試合は彼の将来の悲劇を既に暗示していたような気もする。翌日のPL学園との決勝戦はエース・新美 敏(日本楽器- 日拓・日本ハム‐広島)に相模打線が襲いかかり乱打戦を制した。
初の全国制覇を達成したことでさすがに以後「東海大相撲(とうかいおおずもう)って何?」とは言われなくなったが、このあとの神奈川は翌年1971年に大塚 喜代美(三協精機)-土屋 恵三郎(法政大‐三菱自動車川崎)のバッテリーで優勝した桐蔭学園の台頭もあり、戦国時代化していく。
2年生エース・永川 英植(ヤクルト)を擁し、1973年の選抜に初出場初優勝した横浜。その永川をもってしても夏は予選突破できず、1974年の夏は原 辰徳(東海大‐巨人)、津末 英明(東海大- 日本ハム- 巨人)、村中 秀人(東海大-プリンスホテル)の1年生トリオが活躍した東海大相模に屈した。奇妙な符合だが、永川も湯口同様プロ入り後は大成できぬままこの世を去ることになる。