阪神の「お家騒動」は約70年前の1955年にさかのぼる
ここに1冊の本がある。今年2月に上梓された村瀬 秀信著「虎の血」(集英社刊)。長年にわたる阪神の「お家騒動」史を丹念に追った好著である。
1955年、松木 謙治郎監督の後任としてその座についたのは、なんと還暦を過ぎた(平均寿命が70歳の時代の還暦は今の80歳くらいの感覚か)岸 一郎。球界ではほぼ無名の在野の素人だった。なぜ、プロ野球経験のない老人が阪神の監督になれたのかは、いまだに謎であり本書においても推測の域を出ていない。岸は大正時代、もちろんプロ野球が誕生する遥か前に早稲田大のエースとしてその名を轟かせた。その後満州に渡り満鉄クラブでも活躍したが、戦後10年を迎えた昭和30年の球界で岸を記憶している者はごく僅かであった。岸はなんと開幕から33試合で解任された短命監督で、球史から抹殺されたと言っても過言でないミッシングパーソン。しかし、現代まで連綿と続く阪神球団のトラブル体質を産んだきっかけとなり、負の遺産を残したという点では「エポックメイキング」な存在だったことが本書を読むとよくわかる。
故人の名誉のために一応述べておくと、藤村 富美男、金田 正泰らのうるさ型のベテランに忖度せず、小山 正明、吉田 義男、西村 孔一らの若手を積極的に登用し、新陳代謝を図ったことは後のチーム活性化に寄与、一定の成果を示した。逆にその英断が藤村らベテラン勢の反感を買い、結果的には排斥されていく原因となる。岸自身の指導者としての経験不足と旧弊な野球観が相容れないのは致し方ないが、その温厚でジェントルな人柄は、ともすると百戦錬磨の猛者達には頼りなく映り、つけいる隙を与えることになる。次第と露骨に采配に疑問を呈す選手も出始め、藤村に至っては監督の交代指示を無視して代走を拒否する暴挙に出る。江本の「ベンチがアホやから」発言などはまだ可愛い方だ。
つまり、この一連の騒動は、選手が監督に対し陰に陽に批判をしてもいいという雰囲気を醸成した最初のケースとなったのだ。これは会社でいえば、平社員がマウントを取って社長にあからさまな不平不満を言って排斥運動をしたらどうなるかを想像してみるといい。秩序とガバナンスが崩壊し、組織が機能不全に陥ることは間違いないだろう。このあと岸を追いやった藤村が監督代行から正式に監督に就任することになったが、皮肉なことに、今度はその傲岸不遜で独善的な態度が不興を買い、藤村自身がブーメランでチームから排斥されてしまう。
これに端を発し、以後阪神の監督人事は、本社主導で決められていくものの、常にいざこざが絶えないのは、歴史が証明している。村山 実、吉田 義男、金田 正泰、安藤 統男、藤田 平、中村 勝広、最近では金本 知憲、矢野 燿大らはすべて勇退とはいえない不本意な辞め方をしていて、あの野村 克也さえ「この球団は手に負えない、もう辞めさてくれ」とさじを投げかけたという。人気球団の宿命と言えばそれまでだが、マスコミとファンの愛憎半ばの視線に常にさらされる中でのストレスは並大抵でない。引退した鳥谷 敬があちこちで「阪神の監督はできればやりたくないですね…」と語っていたのは、特殊な環境と「阪神タイガース監督黒歴史」を学習していたからに他ならないはずだ。岡田閥と目されていた鳥谷のこうした態度が、今回の監督人事にも影響していた可能性は高い。