東京・国立駅近くに校舎を構える偏差値70超えの進学校・桐朋。この夏卒業を迎える野球部員は、名門大医学部や東大・京大を志望する選手ばかりだ。そんなチームメイトに囲まれて、森井 翔太郎選手(3年)は、小学生から夢に見たメジャーリーガーを目指している。
183センチ、86キロと恵まれた体格から、投げては最速153キロ、打っては高校通算39本塁打(5月下旬時点)――――。正真正銘の二刀流として活躍する森井は、なぜ桐朋に進学し、超進学校でプロ注目選手にまで成長できたのだろうか?
もともと森井は日本のプロ野球よりもメジャーリーグが好きだった。
「小学校のころからメジャーを目指してきました。父親がアメフトをやっていたので、アメリカのスポーツを見る機会が多く、NPBよりメジャーリーグを見ていたことは大きいです」
夢を実現させるべく、小学1年生のとき、地元の野球チーム・武蔵府中リトルに入部する。
「小学3年くらいから(投手も野手も)『僕はどっちもできる』と思っていました。『どっちか捨てるのはもったいないな』という気持ちでした。自分を信じられなかったら、目指すところには行けませんよね。最初は根拠の無い自信から(二刀流を)やっていました」
小学6年時にはライオンズジュニアにも選出された。中学時代には練馬北リトルシニアでプレーしたが、小学6年時の冬に発症した腰椎分離症の影響もあり、桐朋中学の軟式チームで野球を継続することを決断した。
「腰のケガもあったので、軟式で一からやり直そうと思いました。家族やシニアの監督とも相談をしましたけど……。(この時期に)体のケアや柔軟性のたいせつさも学ぶことができました」
しかし、硬式と軟式では勝手が違った。
「自分のスイングスピードが速すぎたのか、上からボールを叩くと球がつぶれてしまうんです。硬式ではやらなかった真ん中を狙ってボールを運ぶ意識で軟式球を打っていました」
投手としては制球力に苦しみ登板機会も減らしてしまった。しかし、すぐに非凡なセンスを発揮。レギュラーとして結果を残し続けた。
高校は桐朋に進学することを決意した。
「桐朋の練習時間は2時間程度と短いですけど、グラウンドは広いですし、一人一人が自分で考えて練習ができる環境でした。意志を持って努力していけば実力は伸ばせると思いました」
高校入学当初は「ここまで注目されるとは思っていなかった」と同校の田中 隆文監督は言う。それでも精神面の強さは目立っていた。
「1年生の頃から試合に出ていたのですが、緊張している中でも、気持ちをうまくコントロールしていました。いつも試合を楽しんでいるような、余裕があるように見えるんです」(田中監督)
森井は「考えながら練習ができる」桐朋の環境の中でしっかり成長していく。
「投手としての制球力がなかったんですけど、田中監督から『8割で投げろ』と言われたことで、リリースの時に力まず投げられるようになりました。打者としては対応力が大事だと考えて練習してきました。いくら飛ばせてもコンタクトできないと打てない。高校1年生のころは、相手のレベルが上がると空振りしてしまうこともあったんですけど、最近は少なくなってきました」(森井)
いつしかストレートの最速150キロを超え、高校通算本塁打も30本に達した。そんな森井をメディアもスカウトも放ってはおかなかった。