11月16日から2日間かけて、地区No.1を決める第42回全日本大学9ブロック対抗準硬式野球大会(以下、9ブロック大会)を神奈川県で開催。全北信越選抜と全東海選抜の一戦は全東海選抜が7対0で勝利。全北信越選抜は悔しい敗戦となったが、寺下佳孝投手(金沢泉丘出身)は光る活躍を見せた。
0対7で迎えた7回表、全東海選抜の攻撃で、寺下が指名打者を解除してマウンドへ。「前回大会、最後にホームランを打たれて負けたので、今回は終盤に投げられるように待機していた」と予定通りの登板。試合の情勢は大方決まっていたが、打者8人に奪三振3つという内容だった。
ストレートの最速は149キロを計測。スピードもさることながら、打者がボールの下を振っているシーンが何度も見られた。想像以上に伸びあがる快速球で空振りを奪う姿は、まさに圧巻だった。
このボールは、「小学生の時から結構投げられていた」という天性の武器。そこに、「入部直後、コロナ禍で時間があった」ということでウエイトトレーニングに力を注いだおかげで、149キロまで上昇したという。
そんな寺下、金沢泉丘時代は最速140キロ前後。決して突出したスピードはなかった。だが、1年生の時には日本航空石川に勝利したり、遊学館に相手にも好投したりと結果を残した。おかげで県内屈指の好投手として「周りから凄く注目してもらえた」という。
しかし、3年間でベスト8が最高成績。いくらスピンが利いていても、球速が足りずに上位校には通じなかった。結果、「フォームを崩すなど上手くいかなくなり、周りに迷惑をかけた」と挫折を経験した高校野球だった。
それもあってか、「自分の人生においてどっちが大切か考えた」末に勉強を優先。硬式ではなく、金沢大医学部に入学後に知った準硬式の世界へ。
5類に移行される2年生後半までは、高校時代の課題だった球速アップのためにトレーニングに注力。おかげでスピードは向上して手ごたえを感じた寺下は、全体練習が再開してもトレーニングを継続。すると3年生の秋、甲子園大会のメンバーに選出。金沢泉丘時代にかなわなかった、夢舞台に立つチャンスを勝ち取った。
「午前と午後、どちらも参加させてもらったんですが、高校時代、なかなか取材してもらう機会がなかったなか、あの試合は中継映像も残っていますし、記事も出してもらえた。色んな人に『見たよ』って言われて、自分たちの活動を認知してもらえる喜びはありました。
あとは、球場は綺麗だし、全ての環境が良かった。1試合目はそわそわしてしまいましたが、関東や関西にいる選手たちと戦える機会もないですし、何より純粋に野球がめちゃくちゃ楽しかったですね」
そのおかげもあり、寺下は「モチベーションになって、1年間はさらに成長できています」と甲子園という舞台が、大学準硬式になっても大きな支えになっている。
こうした環境に寺下は感謝の言葉を残しつつ、大学準硬式での良さをこう語る。
「僕らは現実的にプロの世界に行けるわけじゃない。プロを目標に野球をやっているわけではないので、野球だけが全てではないです。だからこそ、野球を楽しくやれないのは意味ないと思っているんです。だから楽しくやるために、やるべきところはしっかりやる。とにかくうまくなる、どんどんうまくなりたい。大谷翔平さんではないですけどね」
寺下の爽やかな表情には、野球に対する充実感がひしひしと伝わってきた。金沢泉丘時代に、「バカになれ!」と一言を恩師にもらってから、「野球をやる時はいつもそのことを考えるようになった」そうだ。この言葉があったから、寺下は野球を純粋に楽しみ、全力で向き合い続けて149キロまで到達した。
大会終了後、寺下は再び病院実習に戻った。こうした文武両道を成立させながら、本気で野球を楽しんで、甲子園に出場できる。これこそが新たな大学準硬式の形になるのだろう。