要約すると、今のMLB野球はセイバーメトリクスに代表されるデータとテクノロジーに偏重し過ぎていて、選手の個性が尊重されていない。頭のいい人が野球を支配している傾向は危険で、いずれNPBもこの流れに巻き込まれるだろうと指摘していた。
「野球は繊細なスポーツ」「見えないものを大切に」と説くイチローの主張の根幹にあるのは、本人が再三番組内でキーワードとしてあげていた「感性」という言葉に尽きるだろう。
音楽業界においても、クリエイティブとデータのせめぎ合いは昔からあり、過去実績から紐解くマーケティングデータだけでは必ずしもヒットを生むことができないことと、このイチローの警鐘は相通じるものがある。昨今はさらにデータシステムの高精度化が進み、ヒットマーケティングには不可欠な機能となっているが、それでもクリエイターとアーティストの直感や熱量がないと世の中を席巻するようなムーブメントを起こすことは難しい。
イチローや松井が懸念する現代野球の「感性」の否定は、野球というスポーツが本来もつファンタジー性やドラマ性のような「定性概念」の喪失をも意味する。その弊害がどのような形で顕現するのかは今のところはわからないし、イチローも具体的には述べていない。しかし、その行き着く果ては彼がいみじくも口にした「退屈」という表現に集約されるのではないか、とふと思った。
データ重視のDeNAを下克上日本一導いたのは過剰なまでの「熱量」だった
NPBにおいて、最新テクノロジーを駆使したデータ野球を最も積極的に導入しているチームはDeNAベイスターズだろう。昨年の下剋上日本一の要因には、ベンチワークにアナリストによるデータ分析を採り入れ、戦術・戦略化したこともあったと言われている。一方で、年末から全国公開中の映画「勝ち切る覚悟」を観て感じたのは、昨シーズンのチーム躍進の鍵は、むしろ古典的ともいえる監督・コーチらの指導者-選手-チームスタッフ間の細やかなコミュニケーションと情報共有の大切さにあり、とりわけシーズン終盤からポストシーズンにかけては、主将の牧 秀悟を中心に「言葉の力」でチームを鼓舞し一つにまとめていく姿が印象的だった。そこにはまさに過剰な「熱量」の奔流があった。
このデータ野球に関して、DeNAチーム関係者や、他球団の方から聞いた話で共通していたのは、当然のことながら「データは使いよう」「盲信せずに現場が適宜判断」ということだったが、同時にデータ分析をしたアナリストと現場を預かり最終判断を下す監督との間に優秀な「通訳」の存在、さらにはその指示を理解し対応できる選手個々の明晰な「野球脳」が必須だとも言っていた。昔と違いピッチャーの球種一つとっても豊富かつ多彩になり、それに伴い配球パターンも多様化した令和野球は高度に複雑化し、これについていけずに脱落していく若い選手も多く、スカウティングの調査段階で学業成績を参考にするケースもままあるらしい。いやはや、大変な時代になったものだ。
イチローや松井の危惧は、すなわち未来野球の行く末がテクノロジー支配による無味乾燥なスポーツになり下がることへの憂慮に他ならない。「勝ち切る覚悟」の中で描かれたような生身の人間が紡ぎ出す泥臭い野球ドラマがこの先いつまで堪能できることだろうか。さすがにゲームや選手そのものがAIに取って代わることはないと信じたいが、鍛え上げられた強靭な肉体とアスリートの本能と感性によってでしか生まれないファンタジックなプレーとパフォーマンスを見られなくなるのだとしたら、筆者もそこまでは生きていたくないなあ、とつくづく感じ入った新春である。