第97回選抜高校野球大会(センバツ)は3月18日に開幕(阪神甲子園球場)を迎える。大会開催を前に、出場校の過去のセンバツの戦いぶりを振り返る「出場校あの日・あの時」を紹介していく。今回は、戦前の中等学校野球大会だったころの1931年の第8回大会で優勝した広島商(広島)の物語である。

 今センバツに臨む広島商は、3年ぶり23度目の「春」となる。出場回数は今回出場校中、高松商(香川)、天理(奈良)に次いで3番目。優勝も1回経験している。しかし、その栄冠は、いまから94年も前の話のことだ。

 大会名がまだ「選抜中等学校野球大会」だったころのこと。満州事変が起きた昭和6年のセンバツで優勝したのが、3年連続3度目の出場だった広島商。伝説の投手が大活躍した。

 灰山元治投手が初戦の坂出商(香川)で、センバツ史上初となるノーヒットノーランを達成した。これまで大会で13度達成されているが、その第1号である。灰山は準々決勝の松山商(愛媛)でもわずか1安打完封。あわや2試合連続ノーヒットノーラン達成となるところだった。八尾中(大阪)との準決勝こそ、寒さもあったのか、9回に5失点を喫するなど10四死球を与えるなど8失点だったが、決勝の中京商(愛知=現・中京大中京)戦では4安打完封劇を見せて、チームを頂点に導いた。

 前年のセンバツでは初戦敗退。その悔しさを胸に夏に連覇を達成した右腕が、翌年の春に快投を演じて夏春連覇を勝ち取った。この大会では、背番号が採用された初めての大会でもあり、背番号1、主将で4番エースだった灰山は「元祖エースで4番」とも言われている。灰山の投球はもちろんだが、打ち勝つ野球ではなく、守りでリズムをつくり、バント攻撃や機動力を駆使した攻めを得意とした広島商の戦い方を印象付けた大会でもあった。

 灰山は卒業後、慶応大を経てライオン軍(のちの朝日軍)でプレーした。そのほか、全国Vレギュラーには、のちの南海監督として名将となった鶴岡一人内野手をはじめ、中部日本(のちの中日)でプレーしたのち、審判員となった浜崎忠治内野手、結城ブレーブスのオーナーとなった土手潔捕手、広島の事務局長も務めた久森忠男外野手ら、日本プロ野球界に大きく貢献した人物がいた。

 その後、広島商は夏は3度優勝を味わったが、センバツでは準優勝が1度あるだけ。伝統の広島商背番号1を背負って昨年秋の中国大会優勝に貢献した大宗 和響投手(2年)をはじめ、「広商野球」を引き継ぐナインが、94年ぶりの春頂点を狙う。

1931年センバツ広島商のスコア

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