「良くなる未来が見えなかった」
――プロでは個人の数字が、年俸や来季の契約につながる。結果を残さないといけない苦しさはあったでしょうか。
島 そこもありますよね。高校時代のようにチームの勝利のためにみんなで頑張るという気持ちの度合いはプロの場合、どうしても薄れますし、それよりも個人で能力を伸ばし、どれだけ成績を残すのかというところにフォーカスされる世界。そこに対して自分は苦しんでしまったかなと思います。同僚の投手たちも、チームメイトなんですけど、投げるポジションや、来季の契約を占うライバルでもある。なかなかうまくいかなかったですね。
――高卒3年目だった19年の二軍成績は20試合で防御率2.00と、最もいい数字でした。
島 日によって投げている感覚にばらつきがあって、良い時と悪い時がはっきりしていました。だから自分自身と戦っている感がすごく強かったです。成績上は1、2年目よりは良いかもしれませんが、状況はあまり変わったといえませんでした。
高校時代はフォームも思い通りもできていましたし、打者相手にどのコース、どの球種を投げればいいのか、考えながらできていました。ただプロの3年間は打者相手に勝負はできなかったですね。
――自分との戦いになってしまうんですね。
島 そうなってしまうと、なかなか抜け出すのは難しいです。
――そして10月に球団から連絡があったのですね。
島 球団から呼ばれて「育成契約に切り替えます」と通告されましたね。
――しかし、育成契約は結ばず引退。なにか事情があったんですか。
島 やはり自分の未来があまり見えなかったのが正直な感想ですね。このまま育成選手を続けてもこの状況が良くなる感じがしないと思って、中途半端にやり続けるよりかは引退しようかなと思いました。
――もしこれまでの状況が変わる可能性があれば、現役は続けていましたか?
島 そうであれば、続けていたかもしれません。でも良くなる状況は見えなくて。一番投げた3年目も、シーズン後半はイップスの影響で投げられない日々でした。そういう状況も相まって、自分の状況を大きく切り替えたいと思い、引退しました。
――周りの反応はどうだったのでしょう。
島 驚かれたと思います。熱心に応援してくれた家族も暗い感じでした。自分は宣告された後もフェニックスリーグに帯同していますし、順当に行けば、育成選手として来シーズンも契約する流れだったと思います。フェニックスリーグにいった時点で引退すると決めていたので、周りからはどうした?という反応でした。
――そこから国学院大に進むきっかけは何でしょうか。
島 もともと大学に進みたい思いはありましたし、今後の人生を考えた上で、高卒よりも大卒のほうがいいかなと思いました。大学にいって、野球以外の経験もしたいと思いました。
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島孝明(しま・たかあき)
1998年6月26日生まれ。佐倉シニアで投手として活躍し、指導者の薦めで東海大市原望洋に進学。下級生時から活躍し、3年春には最速153キロに到達し、安定して150キロを叩き出す剛腕へ成長した。高校日本代表に選ばれ、16年のアジア大会優勝を経験。同年のドラフトではロッテから3位指名を受けた。ロッテ3年間では一軍登板なしに終わり、育成契約打診があったものの固辞して、現役引退を決断した。ロッテ退団後は国学院大の人間開発学部健康体育学科に進学。4年間で中学・高校の保健体育科の教員免許取得し、24年4月から慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科への進学が決まった。24年の合同トライアウトでは最速151キロをマークした。現在も投球フォームの解析など野球についての研究を続けている。