球界を代表する選手が多く生まれた「1988年世代」。デトロイト・タイガースの前田 健太投手(PL学園)や右打者史上最年少で2000本安打を記録した巨人・坂本 勇人内野手(光星学院=現・八戸学院光星)、さらには今オフ巨人移籍を果たし、復活を期す田中 将大投手(駒大苫小牧)ら、同学年の選手は今もなおプロの世界で奮闘している。
そんな88年世代の「剛腕投手」の一人に増渕 竜義氏がいる。埼玉県の公立校・鷲宮出身。150キロ近いストレートを投げ込み、ついた異名は「公立の星」「斎藤雅樹2世」。田中や甲子園優勝を果たした斎藤 佑樹投手(早稲田実)らと並んで雑誌で特集が組まれるほど“超高校級の逸材”と言われ、ドラフトではヤクルトから1位指名を受けた。
期待に応えてルーキーイヤーから開幕ローテーション入りを果たした増渕氏だったが、弱冠27歳の若さで現役引退。紆余曲折を経て、現在は地元埼玉の野球塾・「TAKARAベースボールアカデミー」で塾長を務める。そんな元剛腕投手の歩みに迫った。
菅野智之との投げ合いで「プロを確信」
小学4年生から野球を始めた増渕氏。中学時代は軟式の部活動で120キロ後半の直球を投げ、高校進学時には地元埼玉の名門校から多く誘いを受けていたという。それでも、「僕の中で私立に進学することは頭になかった」と語ったように、進学先に選んだのは公立校の鷲宮だった。
「鷲宮に見学させてもらった時に、『私立を倒して甲子園に行く』っていう強い気持ちを持って選手一人ひとりが練習していました。また恩師である高野(和樹=現・上尾高校監督)先生に会い、野球だけでなく、私生活や人間性をしっかりした上で目指していくと教えてもらい進学を決めました」
期待を受け入学したが1年時夏に初戦の所沢北戦で逆転打を許して敗戦。早くも挫折を味わった。それでも失敗を肥やしに成長した増渕氏は、「2年生の秋頃には意識していました」と高卒でのプロ入りに自信を覗かせていた。そんな自信が確信に変わった試合がある。3年時春の関東大会で登板した東海大相模との一戦だ。
「正直その試合でプロ行けると確信しました。菅野(智之)投手と投げ合って、あんなに強い高校でも通用できたと。一番に田中 広輔(現・広島)だったり、4番には田中 大二郎(元・巨人)だったりがいる中で、勝負できたことで自信がつきました」
自慢のストレートも最速149キロまで伸ばし、吉報を待った。
ドラフト当日、高校生ドラフト1巡目で西武とヤクルトが増渕氏を指名し競合。当時ヤクルトを率いていた古田 敦也氏がクジを引き当てた。
「西武は地元ですし、僕の母はヤクルトレディ。どちらとも縁がありました。でもどちらかというとヤクルトっていう気持ちは強かったですね」
3年間で甲子園出場の夢は叶わなかったが、その才能を開花させ、同学年の田中、坂本らと肩を並べた。