「鮮明に覚えていることが何1つない」
当時のヤクルトは古田氏に加え、石井 一久氏(現楽天GM)、現在のヤクルトで監督を務める高津 臣吾氏らスター選手が揃っていた。そんな入団当初の光景をこう振り返る。
「正直僕はもうゲームの世界にいる感覚でした。練習試合、オープン戦と投げさせてもらって、古田監督とバッテリーも組ませてもらったんですけど、鮮明に覚えていることはまず何1つないです。それだけ何一つ気持ちに余裕がないというか、周りが見えずに夢中だったなと」
無我夢中で腕を振った右腕は、練習試合で自己最速の152キロを計測。自慢の直球でアピールし、開幕ローテーション入りを果たした。
プロ初登板は「緊張しなかった」と自信を持ってマウンドに上がると、7回1失点と好投を見せた。ただプロの世界はそう甘くない。その後は連続でKOされ、二軍落ちを経験した。デビューから一心不乱に投げ抜いた増渕氏は、かすかな記憶振り絞ってこう話す。
「まず体力がなかったですね。初登板した時はいい投球ができましたが、二試合目、三試合目ってなった時に、自分のボールがいかなくて自信がなくなりました。肉体的なのか精神的なのか。緊張感ある中でずっとアドレナリン出っぱなしで投げていたので、気持ちが少し落ち着いたんでしょうね。そうなった時に体がついてこないのを凄く感じました。そこで不安に思って投げているうちに肩を痛めてしまったんです」
厳しい現実を受け止め、二軍では体作りに励んだ。
「一軍にいると強化というより調整なんです。だから二軍に落ちてはじめて強化っていうフレーズを聞きました。二軍になってやっと走り込みとか体力トレーニングとかがメインです」
中継ぎで開花も翌年に先発再転向…
3年目には顎に打球が直撃して負傷するなど不運にも見舞われ、一軍定着はならなかった。復活を期すべく臨んだ2010年、球団から指示されたのは中継ぎ転向だった。
「正直中継ぎの方が僕の中では合っていると感じていました。真っすぐのスピード、球の強さで勝負するピッチャーで、長いニングを計算して投げるのではなく、1イニングを全力を出すことが得意でした」
オフには同じくドラフト1位の由規氏とともに、アリゾナで肉体改造に着手。トレーニングだけでなく、サプリメント等で徹底された食事管理に時間を費やし万全な状態で臨んだ。その努力が奏功し、一軍では57登板、防御率2.69と才能を開花させた。
しかし、翌年には先発再転向を言い渡された。1イニングを全力で投げるスタイルがはまっていただけに、もがき苦しんだ。
「正直中継ぎの方がいいかなとは思っていました。中継ぎと先発の両立は非常に難しかったです。自分自身のレベルを上げるためにチャレンジしたのですが……。投げ方が分からなくなりました。先発だったら最低でも6イニング投げなきゃいけないと僕の中で勝手に力配分をしていたので、そうすると思いきり投げていた感覚が分からなくなりました」
最大の武器であるストレートを思うように操れず苦しんだ。13年には一軍登板が5登板と、打球直撃で離脱した09年以来となる1ケタ台の出場に留まった。
迎えた14年オフ。再起を期すべく臨んだプロ8年目の開幕直後、自身の携帯に一本の着信が入った。そこで告げられた内容は予想だにしないものだった…。
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