18日から第97回選抜高等学校野球大会の取材に入っています。知り合いの記者と雑談を交わす中で、ある若手選手の開幕一軍争いが話題となりました。それが西武の山田 陽翔投手(近江)です。高校時代は2年夏から甲子園を経験し、3度の出場でいずれもベスト4と、22年の高校球界を代表するスタープレイヤーとして活躍しました。
プロ3年目の今年は、オープン戦4試合、4回を投げ、自責点1に抑えています。
今回はそんな山田投手のアマチュア時代を振り返っていきたいと思います。
指揮官は山田を全面的に信頼し、監督みたいな立ち位置に
まず山田投手の名前を聞いたのは中学時代のことです。最速142キロの速球を投げるスーパー中学生として注目された山田選手の企画を、関西地区の記者がインタビュー取材、動画撮影を行いました。その記者から提供してもらった動画を見て、驚かされました。迫力のある投球フォームから繰り出す速球は勢いがあり、中学3年生とは思えない威力がありました。打撃もフルスイングで長打性の打球を連発し、本塁打も打ちました。体つきも逞しく、体の強さも感じさせました。
その中で山田投手は「将来的には両方の可能性を広げていきたいと思います。打てて守れたら一番理想的なんですけど、その理想に近づけるように今は頑張りたいです。尊敬しているのは丸 佳浩選手(巨人)と千賀 滉大選手(当時ソフトバンク)です。丸選手は広角に打てるところ、千賀選手のストレートと落差の大きいフォークが魅力的なのでそれぞれ尊敬しています」と意気込みを語ってくれました。
近江では2年生から頭角を表します。投打で才能を発揮し、3大会連続の夏の甲子園出場に貢献。山田投手の注目度が上がったのは、21年夏の大阪桐蔭戦。6回4失点でしたが、チームが逆転に成功し、大阪桐蔭撃破に成功。その後、山田投手は3回戦の盛岡大付戦で本塁打を放ち、投球でも好投を続け、ベスト4入りに貢献。毎試合、145キロ前後の速球を投げ込み、ドラフト候補として注目されるようになりました。
2年秋は右肘炎症の影響で、登板なし。チームは近畿大会準々決勝敗退し、センバツ出場を逃し、最後の夏に向かうだけだと思いましたが、京都国際はコロナ感染者が相次ぎ、出場を辞退。補欠校1位だった近江が代替出場することになります。そこで山田選手は長崎日大、聖光学院、金光大阪、浦和学院と強豪を破り、決勝進出を果たしました。3年生になってからの山田選手の投球は完成度が高いものになっていました。
スプリット、ツーシーム、スライダーなど多彩な変化球を投げ分け、速球も安定して140キロ中盤の速球を投げ込んでおり、レベルアップしている姿が伝わりました。
しかし心身ともに疲労が限界だった決勝戦は大阪桐蔭に打ち込まれ、準優勝に終わりました。さらに夏は最速148キロに達し、夏の甲子園ベスト4に進出しました。この時の山田選手は投打だけではなく、一主将としてチーム全体を把握し、首脳陣に進言できる立場となりました。3年春の近畿大会で山田選手に話を聞くと、現在、チームはどんな課題があるのか、何をするべきなのかをスラスラと答えていた印象があります。
多賀章仁監督は「今年のチームは山田が監督。私は山田のファンです」と見守るスタンスでした。投手起用も山田選手の意見を聞いていたといいます。
投打で高い才能を発揮し、主将としてチームをまとめ上げ、3季連続の甲子園ベスト4。小学校から高校まで地元・滋賀のチームで歩んできた選手として、山田投手は滋賀内では大スターだったと地元の記者が話をしてくれました。またこの記者は多賀監督だったからこそ、山田投手の才能、キャラクターを発揮できたといいます。
「中学時代から能力は高く、人間性は良い意味で、”ガキ大将”。どんどん引っ張っていくようなキャラクターでした。多賀監督は選手の個性を最大限に引き出す指揮官。山田選手の個性を失わず、大黒柱として活躍できたのは多賀監督の方針が大きかったと思います。周りの選手も脇役に徹し、しっかりと仕事ができる選手が多かったのも近江が躍進した理由だと思います」