「当時の県岐阜商は野球を続けるОBも少なかった。マインド面でも県内の試合で善戦するだけで満足しているところがありました」

そう振り返るのが、昨年8月限りで県岐阜商の監督を退任した鍛治舎巧氏だ。過去に指導していた枚方ボーイズに10年ぶりに戻り、監督に就任している。18年に県岐阜商の監督に就任するまでの県岐阜商は低迷が続いていた。15年には剛腕・高橋純平投手(元ソフトバンク)を擁し、センバツベスト8まで勝ち進んでいたが、わずか2年で県立校にコールド負けするまでになっていた。この6年間で、甲子園出場4回。毎年、甲子園を狙える名門を復活させた鍛治舎監督に、県岐阜商で残した功績や、高校野球10年間経験し、中学野球に戻って伝えていることについて語ってもらった。

体質、進路体制すべてを変えた

——県岐阜商の監督を退任してからすぐに中学球界に復帰を発表されましたが、県岐阜商に在籍していた時からずっと考えていたプランなのでしょうか?

鍛治舎監督 実は2014年に秀岳館にいく時から「(熊本に)5年行ってくるぞ」と枚方ボーイズには伝えていて、5年間留守にするつもりでいましたが、それが想定より早く3年5ヶ月で秀岳館の監督が終わりました。2017年のクリスマスイブに熊本を後にして大阪に帰った翌朝、あるスポーツ紙が『県立岐阜商業監督へ』と大きく掲載。寝耳に水です。引っ越しの荷を解く暇もなく問い合わせの携帯が鳴りっぱなしでしたね。

すぐに母校(県岐阜商)校長に「どういうことか」と電話しました。前年秋も前々年秋も、主要OB等から話がありましたが丁重にお断りしていました。

「話は県教委から知事まで伝わっていて、行政、OB会、現場指導者、そして学校長の私もぜひお願いしたい」まさしく新聞辞令でした。

甲子園に出場した2年間で、関東のチームと戦い、健大高崎作新学院木更津総合常総学院花咲徳栄横浜に全勝。「この人か来れば、そういう学校に勝てるのでは!」と勘違いした理事長が多かったのか、関東方面から年俸3千万円超のオファーも数多く来ていました。ところが急転直下、年俸80万円の母校監督に収まりました。

 県岐阜商野球部は昨年2024年が創部100年。就任した18年から昨年まで6年間は県岐阜商で監督をやり、それが終わったら枚方ボーイズに戻る話に。結局10年弱、高校球界にお世話になりました。

——就任するまでの県岐阜商はいわゆる岐阜の伝統校という立ち位置でしたが、鍛治舎監督の革新的な取り組みで、在任中は4度(20年春、21年春夏、22年夏)の甲子園出場。常に県の優勝争いを繰り広げる強豪に進化しました。

鍛治舎監督 ずっと”古豪”と呼ばれてきましたが、それが嫌いで、”強豪”と呼ばれるようにしたい。その思いで取り組んできました。

――去年、県岐阜商を訪問した時に、選手たちの気持ちが「全国でどう勝つのか」という基準に上がった感じがしました。

鍛治舎監督 2年目秋以降、明らかに目線が上がりましたよね。それまでは県でどう勝つかだったのが、東海地区、全国で勝つにはどうすればいいかという意識に変わった。それが日々の練習内容にも落とし込めるようになりました。1年目、2年目の夏までは、そんな状況ではなかったですね。

――就任当初はどんなチームだったのでしょうか?

鍛治舎監督 就任した2018年4月に春季大会準決勝で中京学院大中京に4対1で敗退。試合後、選手は笑顔。確認したら、「あの中京相手に1対4は善戦。良い試合でした」と答えたので「それだから負けるんだ!それを負け犬根性と言うんだ!」と叱って、帰って夜中まで練習しました。目線が極めて低く、県内強豪校に善戦して満足する雰囲気が充満していました。

 就任した18年の前年は夏3回戦で同じ公立の海津明誠に1対9の7回コールド負け。県岐阜商は伝統校でそれなりの選手が集まっています。でもこういう負けが続いて、なかなか全国に行けない。それは力量差ではなく、メンタル面に課題がある、そこから鍛え直す必要があり、これは時間がかかるなと、もどかしい思いでした。

――そのスタートから6年経った昨夏の岐阜大会決勝戦ではタイブレークの末、岐阜城北に敗れ、惜しくも甲子園出場を逃しました。選手たちの悔しがり方を見て、就任当初から大きく変わった感じはありますか。

鍛治舎監督 選手たちの目線は先程申し上げた2年目の秋に、大きく変わりました。県で優勝し勝ち進んで東海大会決勝進出。相手は超高校級右腕・髙橋 宏斗君(現中日ドラゴンズ)擁する中京大中京。3対7と負けていた中盤、満を持して髙橋君が登板。

「データと違ってカットのような小さく曲がる変化球から入ってくるんですよ。あれを狙いますか?」「じゃあ、それを狙えば!打てそうか?」「まあ何とか」緊迫した決勝の試合中、そんな会話が成立するチームに成長していました。

 試合前には、140キロ中盤のストレートと曲がり落ちるスライダーがほぼ半々。各打者、どちらかに絞り、打ち崩そう!右打者は1番前、投手寄りに立ち、ベースに覆い被さり、スライダーの角度を消してしまおうか!そう決めていた。データと異なっても、柔軟に対応して切り替えられる。実際、初球のカットをクリーンヒットする打者、145キロ超の外角ストレートを踏み込んでヒットする打者が続き、8回には髙橋君が各打者を、なかなか撃ち取れず満塁、動揺して1年生・髙木翔斗(現広島)に同点デッドボール。あの高橋君から4点もぎ取り同点、なお二死満塁と追い詰めたものの、最終的には7対9と競り負けました。

 試合後、大泣きしていている選手たちに話しました。「やっぱり試合は、惜しかったな!より、危なかったな!じゃないとダメだな。見ていろ、中京大中京は明治神宮大会で優勝するぞ。君たちは、そんなチームとほぼ同等の力がある。センバツは優勝を目指すぞ!」実際、同校は優勝しました。

 あの決勝からチームのムードは明らかに「全国でどう勝つのか」に変わりました。その意識があり、成長の度合いも大きく変わった。全国を意識したことで、平坦な成長から右肩上がりの成長になり、早い段階から高いステージに到達できてきた。新チームの立ち位置はほぼ一緒ですが、急加速で伸びるチームというのは、先輩から後輩へ、強いメンタルが継続して維持できています。これは新たな伝統ですね!

 昨年の夏の大会が終わったあと、新チームの選手たちの練習の雰囲気を見て「秋の東海大会で優勝できる」という確信を持ちました。直後の試合、後に北信越大会出場校相手に、6回表終わって25安打20得点。親しい相手監督から「これ以上やると大会前、選手が自信喪失します。できればここで...」となりました。このチーム状態ならセンバツは確定、早く次の指導者に託した方がよいと思い、退任を固めました。

――鍛治舎監督になってから広島1位の佐々木泰選手(青山学院大)をはじめ、各大学リーグで活躍する選手が増えてきたように感じます。

鍛治舎監督 ОB戦ができるようになりました(笑)。私が就任した時は野球を継続するОBが少なくてОB戦ができませんでした。人数が足りず、中部学院大の当時監督だった原克隆監督(高校の後輩)にお願いして、同大学の秀岳館出身の2投手を手伝いとして呼び、超伝統校の筈の県岐阜商のОB戦に、秀岳館出身の投手が投げるという前代未聞のこともやっていました。

 選手には高校を卒業してから10年は野球をやってほしいと思っています。一昨年の年末に大学野球をやっている選手を集めたら、4学年70人も集まってくれました。それこそが県岐阜商に来てからの1番大きな成果です。監督には、当然、勝ち負け、甲子園出場が問われますが、好きな野球を続けてくれる選手が多いことが実に嬉しいですよね。東京六大学、東都、首都、近畿、東海地区など色々な地域で野球を続ける選手が増えた。野球を続ける基礎価値が着実に積み上がったと思います。

中学球界でも選手の主体性を持たせる指導を貫く

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