ショッキングだった1973年の愛知学院大の決勝進出、エース・小林秀一は巨人ドラフト1位拒否
全日本大学野球選手権大会を最初にテレビ観戦したのは、1971年だったと思う。決勝は亜細亜大対法政大。亜細亜大はエースの山本 和行(広島商、阪神)が強力法政打線を手玉にとって7対4で優勝したが、東京六大学と比べ馴染みの薄い東都大学リーグのチームが勝利したのが解せなかった記憶がある。それほど両リーグには人気格差があったのだ。翌1972年は関西大の山口 高志(市立神港=現・神港橘、松下電器-阪急)が「元祖火の玉ストレート」で慶應義塾の強力打線を抑え込み、1対0で優勝し一躍その名を全国に知らしめた。
1973年はそれ以上にショッキングで、愛知学院大という聞いたこともないチームが決勝に進出、変則サイド・ハンドのエースが、藤波 行雄(静岡商、中日)、佐野 仙好(前橋工、阪神)、行沢 久隆(PL学園、西武)を擁す中央打線に牙を剥いた。決勝は0対3で敗れたもののこの無名投手は、なんとその年巨人からドラフト1位指名され、1位指名では球団史上初となる入団拒否をした小林 秀一(八代第一=現・秀岳館、熊谷組)であった。余談だが、先述した明治大の樋野も中日の5位指名を拒否、これは松山商時代に阪神からの6位指名を蹴ったのに続く2度目の入団拒否となった。また巨人は小林に続いて2位指名の黒坂 幸夫(糸魚川商工=現・糸魚川白嶺-鷺宮製作所-ヤクルト)、3位の中村 裕二(柳川商=現・柳川-法政大-住友金属)にも拒否され波紋を呼んだ。
1991年の東北福祉大優勝で勢力図に変化も、金本の広島4位指名にはビックリ
1980年代になると地方勢が徐々に台頭してきたが、優勝旗は遠い道のりで、1991年の東北福祉大の制覇まで待つことになる。この年はたまたま仙台勤務だったので、東北福祉大の試合を数多く観戦する機会に恵まれた。東北福祉大の主力選手はエース・作山 和英(学法石川、ダイエー)、2番手が斎藤 隆(東北、横浜=現・DeNA他)、俊足巧打の浜名 千広(国士舘、ダイエー-ヤクルト)、スラッガータイプの伊藤 博康(学法石川、巨人-ダイエー)、そして金本 知憲(広陵、広島-阪神)。当時の金本は華奢で非力、とてもドラフトにはひっかからないと踏んでいたが、何と広島が4位で指名してびっくりした。
今世紀に入り、東北福祉大以外でも日本文理大、上武大、中京学院大が頂点に立ち、富士大、中央学院大、流通経済大、福井工大、国際武道大、佛教大が決勝進出、ほぼチーム力の地域格差は是正され、それとともに、いわゆる「ジャイキリ」という概念そのものがなくなった。こうした戦力の均衡化がより多様な才能の育成と発掘に繋がったことは大いに評価すべきだ。実際、現在NPBで活躍している選手、例えばDeNAの宮﨑 敏郎(厳木-日本文理大-セガサミー)、中日の大野 雄大(京都外大西-佛教大)、巨人の吉川 尚輝(岐阜・中京-中京学院大)らは、地方のハンディを克服しこの大舞台でのプレーをきっかけにドラフト指名を勝ち取ったクチである。