4番・キャッチャー、そしてキャプテン 強豪の重責を担い続けた


智辯学園戦での箱山遥人(健大高崎)

――1年秋から正捕手に抜擢されて、関東大会に出場。勝てばセンバツがほぼ確実となる準々決勝では、名門・横浜と対決して、5対2で競り勝ちました。勝てる捕手として自信をつけた試合でしたか?

箱山 まずセンバツがかかった秋の大会で、1年生から捕手を任せてもらえたのは大きかったです。当時、2年連続で夏の甲子園出場をしていた横浜高校に勝てたことはプレイヤーとして大きく成長させてくれた試合だったと思います。

――戦略が優れた横浜は簡単に終わらない粘りを見せるチームです。配球面で気をつけていたことは何ですか?

箱山 先発の小玉 湧斗さん(法政大)を乗せることでした。出塁されるのはしょうがないので、ピンチになって焦るのではなく、ピンチになっても0に抑えればOK、という感覚でリードしてました。三者凡退は3回、9回しかありませんでしたが、粘り強く抑えて勝てたと思います。

――我慢強くリードして掴んだ2年春のセンバツですが、いきなり初戦で優勝候補の報徳学園と対戦し、2対7で初戦敗退となりました。あの時はキャッチャーとしてどんな責任を感じましたか?

箱山 初めての甲子園でしたが、緊張はなく楽しかったです。ただ、自分も先輩方もふわふわした感覚の中で、試合に入ってしまったのがいけなかった。自分がもっと周りを見てしっかりとタイムをとって間を開けていれば、またちょっと違う結果になったと思います。

――春夏連続出場を狙った2年夏は、群馬大会準決勝で桐生第一に0対1で敗れ、甲子園に行けませんでした。

箱山 センバツから「4番キャッチャー」を任せてもらっていました。守りの要であり、打撃では主軸ということで、打者としても勝利に貢献する打撃をしなければなりません。

 負けた試合は1点に抑えることはできましたが、4番打者としては3打数0安打に終わり、4番打者としてチームに貢献できる一打が打てればよかったという悔いはあります。

――3年のセンバツでは全国優勝。学校に歴史を残すことができたことはどうですか。

箱山 学校から多くの支援と応援をいただいて、 本当に多くの方に支えてもらっての優勝でした。チームメイトには「自分たちができるのは勝つこと。それでしか恩返しできない」と常に言っていたんで、そこが達成できて良かったです。

――最上級生になってからの1年を振り返ると、4番捕手をやりながら、キャプテンもこなす。さらに下級生投手をリードする。かなり責任がある立場でした。

箱山 苦労して、自分の思うような結果が出ないことも続きました。やはりどこか「自分が!」という思いがプレーに出てしまい、思うような結果が出せなかったことも多かったです。その点は自分の未熟さだったのですが、そこを乗り越えて春夏も甲子園出場できて、最後までこのポジションをやり通すことができました。今後、自分の野球人生にすごく活かせると思っています。

<箱山遥人インタビュー後編を読む>

箱山遥人(はこやま・はると)

178センチ87キロ 右投げ右打ち

兄は聖光学院、中央学院大でプレーする箱山 直暖外野手(4年)。足立区にあるジュニアヤンガースでプレー。同期には蔵並 龍之介投手(中央学院)。江戸川中央シニアでは3番捕手で活躍、同期には森山 竜之輔内野手(健大高崎)。健大高崎では1年秋からベンチ入り、正捕手となり、主に7番打者として関東大会ベスト4入り、2年春のセンバツから4番捕手に。2年春の春季関東大会優勝、夏は群馬大会ベスト4敗退。秋の秋季関東大会ではベスト4、3年センバツで同校初の全国優勝に導く。3年春の関東大会ではベスト8、3年夏の群馬大会で9年ぶりの優勝を果たし、夏の甲子園では2回戦で智弁学園に敗退。U-18代表選出、高校通算35本塁打。