それは運命だったのだろうか。
2024年6月。能登半島の最北端に位置する飯田高校野球部キャプテンの山田が、この夏の石川大会の組み合わせ抽選会で引き当てた初戦の相手は、今年3月まで11年間、同校の監督を務めた笛木勝の転任先の金沢西高校だった。
「みんなで初戦は金沢西と対戦したいと話していました。5月にも一度練習試合をしてその時は大敗しましたが、自分たちが成長した姿を笛木先生に見せたいとみんなで話して、抽選会当日の朝は神社でお参りしました」

その願いは叶った。山田が振り返る。
「初戦で金沢西との対戦が決まった瞬間は、うれしかったです。笛木先生が転勤される前に、野球は笑顔で楽しくやるのが一番だぞと言われていたので、僕たちが楽しんだプレーを最後の夏の大会で見せられればいいなと思いました」

 もちろん、この初戦対決の実現に胸が震えたのは、山田たちだけではない。笛木も同じ気持ちだった。
「運命的でしたよね。試合当日は、スタンドから見ていましたが、マウンドの選手がストライクを取ればナイスピッチと思わず言ってしまうし、打者がヒットを打てばナイスバッタと言ってしまう。一緒にいた先生から、『どっちの応援してるんだ』って突っ込まれましたけど、どちらの選手も応援してしまう、不思議な気持ちでした」

 試合は、12対3の7回コールドで飯田が金沢西に勝利した。試合後、笛木はベンチ裏に行き、飯田の3年生部員に声を掛けた。
「いい試合を本当にありがとう。次もがんばれ」
 笛木にとっても、それは感慨深い勝利であった。

 振り返れば、7か月前の元旦のあの日。
 能登半島地震が彼らを襲った。笛木も、飯田野球部員たちも、能登半島にあるそれぞれの自宅で正月を迎えていた。
 笛木は当時、穴水町のアパートで家族と過ごしていたが、すぐに家を離れ避難所で一晩過ごした。翌日、自宅に戻ると、食べかけのままのおせち料理の周りに、部屋中の棚が倒れていた。その後、アパートは全壊認定となり、一家で金沢の親戚の家に避難したという。
 笛木と同じように、飯田野球部の部員たちも、避難所で生活したり、近県に避難するなど、野球どころではなくなっていた。
 笛木が飯田高校に戻ったのは1月末。しかし、その後、部員たちが全員集まるまでに2か月かかった。
 しかし、そんな中で笛木の金沢西への転勤が決まったのだ。

 「いろんな感情が入り混じりましたね。最後まであの子たちをみてあげたい気持ちと、能登から離れる寂しさと。能登で暮らしたことで、本当に五感全部の感覚が変わりましたし、この地がとても好きになりました」
東京で生まれ育った笛木が、石川で教員になって初めて赴任したのがこの飯田だった。複雑な感情を抱きつつ、笛木は3月22日に部員たちに、はじめて転勤の話を伝えた。

 ミーティングで、部員たちのすすり泣く声が聞こえてくる。その日のことを山田が振り返る。
「僕の兄も飯田で笛木先生に3年間教わってきて、僕らの代も最後の夏まで、笛木先生と一緒に野球ができると思っていました。でも、こういう形で転勤になるとは思っていなかったので、最初聞いた時はとても驚いたし、すごく不安でした。だけど、キャプテンとして、がんばってチームをいい方向に変えていかなきゃと思いました」
 その2日後。飯田野球部は、震災以来はじめて部員全員が集まって、輪島野球部と共に、宮城県仙台市へと向かった。

 かつて、東日本大震災を経験した仙台育英野球部が、石川県の監督会を通じて、「能登半島の高校を招待したい」と声を掛けたのだった。
 そしてこれが、笛木と飯田の部員たちとで臨む最後の試合となった。
 試合前に、笛木は選手たちと2つの約束をした。
「1つ目は、きみたちはこの3か月間、本当に苦しい思いをしてきたけど、その中で最高のチームと、最高の場所で試合ができることを考えると、今日は日本一野球を楽しんでやる権利がある。だから、どんな結果になっても楽しんで野球をしようということ。
2つ目は、今日は今までの集大成で、自分たちの野球をここでやろう。試合中に先生が指示を出すのではなく、自分たちでボールをみて、自分たちで状況判断をして動こうということ」

 山田は語る。
「勝ち負けではなく楽しむことが大事だと笛木先生も話されていたので、全国優勝も経験されていた仙台育英さんとの試合をとにかく楽しもうと思って試合に臨みました。また、日頃から実践してきたノーサインで自分たちで考えてやる野球もここで発揮することができました」
 仙台育英との試合は、7回まで飯田が4対3でリードするも、8回裏に逆転を許し、4対6で敗れた。それでも、グラウンドには、生き生きとプレーする飯田の部員たちの姿があった。

 それは笛木が11年間、真剣に選手たちと向き合い、時に悩みながらも、笛木自身が選手たちから学んだことでもあった。その成果として、笛木がいた11年間で、飯田は選抜大会の21世紀枠の県推薦校に三度も選出されたのだった。

「飯田に赴任した当初は、僕も熱血漢のように振る舞っていました。そしたら、3日目に、2人の部員が野球部をやめたいと言ってきたんです。そんなところから始まって、いろんな世代の生徒に出会い、その度にアプローチも変えて、生徒たちから教わりながら、この11年を過ごしてきました。今は、自分は指導者というよりも『気付かせ屋』だと思って、生徒たちと接しています。練習メニューも部員たちが作り、試合の打順も彼らで話し合いながら決めてきました」

 笛木自身、高校は西東京の東亜学園で投手としてプレーし、3年生最後の夏は決勝まで勝ち進むも、その年甲子園で優勝した日大三に敗れた。その後、当時、東都リーグ一部だった東洋大でプレーし、野球の厳しさも知った。強豪校での野球を経験してきた笛木だったが、その経験はここの選手たちにとってプラスにはならないことに気付いた。

「能登地域の生徒は、プロ野球選手になりたいとか、甲子園に行きたいという目的で飯田を選ぶわけではなくて、家から近いという理由で入学する子が多いです。その中でも、試合に勝てるようになるには、自分で自分を高めていかないといけなくて、自分に今何が必要なのかを判断できないと勝てないんですよね。だからこそ、今回のような震災が起きた時にも、正しい判断で、自分で行動を起こせるかが大事になってくると思うんです。

 今回も、震災後に初めて行ったミーティングでは、『高校野球をやっていて役に立ったと思ったことはありましたか?』とみんなに問いかけました。それぞれに、避難物資の運搬や避難所の風呂掃除など積極的に行ったと話してくれました。僕自身も被災して改めて、災害で命の危機に接した時に、高校野球というものが有用性の高いものでありたいなと感じました。何が自分たちにできるだろうかと、自分で考えて動けるような。高校野球を通じて、そういう有用性を身につけて動けるようになりたいと感じました」

 笛木が試行錯誤しながらも、向き合い続けた飯田の部員たちとの11年間。笛木がまいた種は、震災を乗り越えて、いつか能登の地で色とりどりの花を咲かせる日がくることを祈って。金沢の地から、笛木は思いを寄せる。