ローズとラロッカが僕のために立ち上がった
二軍落ちが決まってロッカーにある荷物を片付けていると、近鉄時代から仲が良かったタフィー(ローズ)が「お前何してん?」と声かけてきたんです。
「明日からマイナー(二軍)」と答えると、タフィーは「は?なんで本塁打を打っているのに……」という反応です。
そのうち広島で活躍したスラッガーのラロッカ(グレッグ)もやってきたので、彼にも事情を話すと、二人はコリンズのところに向かったんです。
そのあと二人とコリンズの激しく言い合いが聞こえてきました。
ラロッカはそれまでもよくコロンズと揉めていて、キャンプ中に何度も口論になっている姿を見たことがあります。
コリンズに打撃のことを指摘されたラロッカは、コリンスにバットを差し出して「お前がやってみろ」と文句を言うんです。
タフィー、ラロッカとの口論のあと、僕は再びコリンズ呼ばれて、こう告げられました。「開幕戦は一軍に入れるかもしれない。でも、残りのオープン戦は違う選手を見たいから二軍に行ってくれ」
結局、僕は開幕一軍に入れませんでした。
「この人の下では野球をやりたくない」
そのあと、一軍昇格の話もあったんですけど、僕からお断りしました。プロ野球選手として気持ちが切れていたといいますか……コリンズの下で野球をやりたくない気持ちが強くなってしまったんです。オープン戦で結果を残しても二軍落ちされたことでモチベーションは上がりませんでした。
ただ私情から一軍昇格の話を断ることは造反行為です。自分のプロ野球人生は終わりだと覚悟しましたし、シーズン後半はセカンドキャリアのことを考えていました。シーズン後半は二軍戦の遠征メンバーにも入ることはなく、その年限りで戦力外されたのも当然だと思いました。
でも、後悔はしていません。僕がプロ野球選手として活躍したいというモチベーションの1つが指導者の存在だったんですよね。僕は「この人のために活躍したい」と思って、練習も準備してきたので。
いま、僕はその指導者の立場になりました。選手の感情を大事にしないといけないなと常日頃から思っています。
戦力外になったあと、ベイスターズから「リストアップしている。それでも入団可否の決定はトライアウト参加が条件だから、参加してくれ」と言われ、トライアウトを受けることになりました。本塁打も放ったんですけど、結局、入団はありませんでした。
知り合いのスカウトさんから聞いたところによると、左の代打には佐伯(貴弘)さんがいたため、僕も必要なのか、という話になったそうです。
これで僕は引退を決断し、第二の人生を歩むことになりました。
平下晃司(ひらした・こうじ)
宮﨑・日南学園時代は左の強打者として活躍し、1995年に選抜、夏の甲子園出場を経験。同年、近鉄バファローズから5位指名を受け96年から00年の4年間プレー。トレードで阪神に移籍し(01年から04年途中)、その後ロッテ、オリックスを経て07年に引退。現在は東大阪市にある「ブリスフィールド東大阪 スポーツアカデミー」のベースボールスクールのヘッドコーチを務めながら、東大阪長田ボーイスの監督を務めている。