中2の5月、暗転した野球人生
そんな矢先、面談から一か月後の中学2年5月の夜のことだった。
「寝ていたら急に頭痛が起きて……いつもと違う痛みだったんです。とにかく四つん這いになって親を呼びに行きました。 救急車に乗ったあとのことは覚えていません」(吉岡)
清一さんもその瞬間を振り返る。
「夜中の2時でした。たまたま次の日の朝が早かったので、私は居間のソファで寝ていたんですけど、 2階からゴトゴトと音がしたんですよ。目が覚めて部屋に行き、扉を開けると、大和が床に倒れていたんです。『頭が痛い、吐き気がする』と言い、汗だくの状態でした。匍匐前進の態勢のように床に這っていました。水を飲ませようと思って抱きかかえると『痛い!痛い!』と叫ぶんです。すぐに救急車を呼びました」
緊急搬送された病院ではこう告げられた。
「右の小脳に大きい出血が見られるとのことで、『すぐに手術しないと死にます。右半身は麻痺になります』と言われました。妻は『野球はできるんですか』と聞いたんですけれども、『それはちょっと分かりません』と……」(清一さん)
幸い手術は成功し、一命はとりとめた。しかし、医者はこう言った。
「術後3ヶ月経っても身体が動かなかったら、一生車いすでの生活になります」
吉岡の過酷なリハビリ生活が始まった。
右半身が動かない中、懸命のリハビリが続く。体が思うように動かず、豆をつまむリハビリの際に、箸を投げつけてしまうこともあったという。
「今までできていたことができなくなって……。自分自身に歯がゆい思いがあって……。リハビリを投げ出してしまうこともありました」(吉岡)
それでも1ヶ月ほど経つと、徐々に身体が動き始めた。
車いす姿でグラウンドへ「早く野球がしたい」
吉岡の血のにじむような努力を支えたのは、やはり野球への強い想いだった。
「手術後、大和が最初に言った言葉が、『(ボーイズの)夏の大会に間に合うのかね』でした。心の中では絶対無理だろうと思ったんですけど、『おまえ次第だぞ!おまえがリハビリをしっかりすれば、もしかしたらベンチに入れるかもしれない』と……。それしか言えなくて……。すると本人は『じゃあ頑張る!』と返してきたんです」(清一さん)
「どうしてもチームに帰りたい。早くみんなの輪に加わって野球がしたい」
吉岡はその一心で、リハビリのさなか、車いすに乗ってボーイズの練習にも顔を出した。その時のことを高尾響は思い出す。
「歩くこともできないと聞いていたので、自分も悔しかった。そんな中で、大和が車いす姿でグラウンドに出てきてくれたんです。自分たちの励みになりました。本当に感謝しています」
たゆまぬ努力の末、吉岡の身体は少しずつ回復していったが、高校進学の時期を迎えても、右半身には麻痺が残ったままだった。
しかし、吉岡は高校でも野球を続けることに迷いはしなかった。飯塚ボーイズ・春山監督の尽力もあり、大和青藍へ入学が決まると、すぐに野球部の練習に参加する。大和青藍の野崎賢二監督は語る。
「初めて大和を見た時、走る姿もぎこちなかったし、キャッチボールをしてみても、ボールを取ることすらままならない。投げられたとしても塁間にも届かない。それでも『3年間、みんなと同じメニューをやりたい』と言うんです」
野崎監督も吉岡の意を汲み、彼のための特別メニューを敢えて用意しなかった。吉岡は必死に練習を続けた。
「休みの時も『キャッチボールして』と言ってくるんです。ボールがどこに行くかわからない状態なのに。思うように投げられない、思うようにバットが振れない、イライラしている中で、私もどういう風に声をかけたらいいのか試行錯誤しました」(清一さん)