同期入団選手に後れをとる
ーーそんなすごい投手陣の中で、どう自分をアピールしていこうと考えましたか?
近田 正直、1年目は何で勝負できるのかも分からず、とにかく一生懸命ボールを放るだけでした。1人1人の打者を何とか抑えるということしか考えられなかったですね。
二軍でもプロの打者はレベルが違いすぎて、1年目は「このボールは通用する!」みたいなものは摑めなかったですね。僕は同期の中で遅れを取ってしまいました。他の投手は変化球でカウントが取れるので、試合が作れる。自分はそのレベルに達していなくて、ストライクを取ることに苦労しました。
ーー高校とプロとではストライクゾーンに大きな違いがあるんですか。
近田 そこはすごく感じました。この言い方で正しいか分かりませんが、高校野球は同じ会場で1日に何試合もしますから、早く試合を終えることが重視されるところがあるので、ストライクゾーンが広くなりやすい。しかしプロ野球はベース板にしっかりと通ったのかを判断する。プロの投手はベース板にきっちりと投げないといけません。
――1年目では二軍で8試合を投げて防御率5.60という成績でした。2年目から近田さんの中で“プロで勝負できるもの”は見つかりましたか?
近田 1年目が終わって杉内さんとの自主トレに参加して、スライダーを軸にしていこうと決めました。自主トレには、ソフトバンクから左のサイドスローの森福(允彦)さん、報徳学園の先輩の山崎(勝己)さん、阪神から岩田(稔)さんなどプロでも活躍している捕手と左投手が参加していました。
先輩方に自分には何が必要なのか、何が足りないのかを教えてもらいました。その結果やはりスライダーを軸にして、2年目のキャンプからできるかもしれないと手応えがありました。
杉内俊哉との自主トレでレベルアップ
――杉内さんの自主トレではどんなトレーニングをされていたのですか?
近田 とにかく走る、とにかくウエイトトレーニングする。体をいじめ抜くというのが、杉内さんの自主トレです。
鹿児島県の薩摩川内市で行っていたのですが、まず、宿舎から球場までの10キロの道のりを自転車で移動。朝9時過ぎから体幹トレーニングが始まって、技術練習をして、午前中が終了します。昼食後、ランニング、ウエイトトレーニングをして16時には練習が終わります。宿舎に17時に帰ってご飯食べたあと、夜中の9時ぐらいから次の朝7時までずっと寝てましたね。携帯をいじったりする余裕もなかったです。
この自主トレを三勤1休というペースで、2週間やっていました。この厳しいトレーニングでまっすぐの強さが出ました。
――エースと一緒にトレーニングをして何を感じましたか?
近田 とにかく杉内さんに日々驚かされました。まず体力は違うんです。僕は10代で杉内さんは30歳。10歳ぐらい違うのに、走っても後ろから追われるんですよね。後ろから追いつかれてお尻を叩かれて、杉内さんから「お前が一番若いからもっと走れ」と言われて、先輩の方に見守られながら、走ることになったり……。
とにかくさまざまな細かいことを教えてもらいました。トレーニング中には、筋肉をチェックされて「ここが弱い。だから駄目だ!」と指摘してくれたり、キャッチボールの際も、力を入れるポイントなどを教えていただきました。
――超一流の投手はトレーニングについて理論もしっかりと持っているのですね。
近田 そうなんですね。もちろんトレーナーの方も付き添っているんですけど、その自主トレはいろんな先輩投手から考えを聞くことができました。森福さんにしても、岩田さんにしても身体の使い方が繊細でした。力を入れるタイミングが絶妙で、そこが自分と大きな違いでした。
――こうしたトレーニングを乗り越えて、球速は上がったんですか?
近田 確かに球速3、4キロ上がりましたし、今でこそ回転数のデータが可視化できますが、自分の目でみても回転数が上がったなっていうのを感じました。現役の最速は147キロで常時140キロ前半まで投げられるようになりました。
打者に対しても、真っ直ぐで押し込めていると感じるようになりました。フォームが安定したことも大きかったと思います。さらに武器としていたスライダーの速度も上がりました。プロでは、スライダーが緩くなると、カーブみたいな軌道になってしまうので、見切られてしまいます。右打者の膝元に落ちるスライダーを求めていて、それが形になってきました。
空振りも取れて、カウントも取れるまでにレベルアップしたので、バッターを抑えられる確率が上がりました。
――順調な1年目オフでしたね。
近田 ここまでは順調にきていたのですが…2年目、アクシデントが起きてしまったんです。
近田 怜王(ちかだ・れお)
1990年4月30日生まれ。報徳学園時代は07年の春夏、08年の夏と3度の甲子園に出場し、08年夏はベスト8入り。08年ドラフトではソフトバンクから3位指名。09年からプロ4年間は一軍登板なしに終わり、最終年の12年は野手に転向。13年から活動再開となったJR西日本野球部でプレーし、15年に都市対抗出場し、現役引退。2017年から社業の傍ら、京都大の臨時コーチに就任。18年4月から正式にコーチ就任し、21年11月から監督に就任。22年春には開幕戦から勝ち点をあげるなど3選手がベストナインに選出された。今年の24年春は関西大、立命館大から勝ち点をあげて、4位に躍進している。