「サッチーがお前を呼んでいるぞ」

 当時の阪神は機動力を使っていくという方針を打ち出していました。そんな中、春季キャンプで50メートル走を測る機会があったんです。私は全体で5番目の数字でした。

 その練習を見ていた新聞記者が野村監督に「どうします? なにかネタください!」と言ったんです。すると野村さんが「スーパーカートリオ(*1985年に大洋の俊足3選手がこう呼ばれた)があるから……F1セブンや!」と。自分の名前を出していただいたので、ありがたいことです。(*ちなみにF1セブンは1号車:赤星憲広、2号車:藤本敦士、3号車:沖原佳典、4号車:上坂太一郎、5号車:平下氏、6号車:松田匡司、7号車:高波文一である)

 春季キャンプ、オープン戦もうまく結果を残して、僕は開幕一軍を手にしました。野村監督からも「ずっと使うぞ」と言ってもらいました。

 そんな意気揚々とシーズンに臨んでいたある日のことです。東京ドームの巨人戦の日だったんですが、マネージャーが僕に声をかけてきたんです。

「サッチーがお前を呼んでいるぞ」

 僕は、野村監督の奥さんの沙知代さんに、突然呼び出されたんです。

 恐る恐る沙知代さんがいるという部屋に入ると、彼女はいきなりこう言ったんです。

「旦那からアンタの名前を聞くわよ。名前を聞く、というのはどういうこと?」

 とても驚きました。私は必死に、「期待されているからだと思います」と答えました。

 すると沙知代さんは、「その通りよ。頼むわよ!」と言いました。

 沙知代さんからの激励だったんです。とても短いやりとりでしたが、「やってやるぞ!」という気持ちになりました。

野村監督への心残り

 野村さんの出会いで僕の野球観は間違いなく変わりました。ここまで考えて野球をやっている方はいませんでした。毎日ミーティングが2時間もあって「野球はこんなに考えないとアカンのか」と……。プロはセンスだけではできない世界、だと実感しました。

 それまでは、「天才と呼ばれている人は、能力だけでやっている」と僕は思っていた。でも、ノムさんと出会って、「このままだとオレは一流になれない」と思いましたね。

 01年シーズン、僕は開幕戦で2安打を打って、調子は良かったのですが、靭帯を切って、長期離脱となってしまいました。やはりそれまので僕の野球に対する甘さがあったんだと思います。

 僕は中学校からヤンチャして、舐めた態度で野球をやっていました。そんな人間に、野球の神様が「身体のケアをしっかりして、真面目に野球と向き合えよ」と伝えたのかもしれません。野村さんには期待もかけていただいたのに、何もできなかったのが心残りです。

 野球だけではなくて、日常生活もしっかりとしないといけない。それがノムさんに学んだ一番大きなことですね。今は中学生に指導をしていますが、この時に学んだ「日常生活の重要性」についてよく話をしています。

平下晃司(ひらした・こうじ)
 宮﨑・日南学園時代は左の強打者として活躍し、1995年に選抜、夏の甲子園出場を経験。同年、近鉄バファローズから5位指名を受け96年から00年の4年間プレー。トレードで阪神に移籍し(01年から04年途中)、その後ロッテ、オリックスを経て07年に引退。現在は東大阪市にある「ブリスフィールド東大阪 スポーツアカデミー」のベースボールスクールのヘッドコーチを務めながら、東大阪長田ボーイスの監督を務めている。