夏の大阪は簡単にいかない。履正社は大阪桐蔭にとって最後の難関

――吉安選手がベンチ入りしたのは2年春。どうやってアピールをして、ベンチ入りを掴んだのでしょうか。

吉安 秋の大会終了後にB戦(二軍戦)がたくさん組まれて、そこでベンチ入りできなかった選手たちが試合に出て課題をみつけます。自分はB戦ではあまり結果が出なかったんですけど、紅白戦や、冬を越えてからの練習試合でだんだん結果を残すようになり、ファーストにコンバートして打撃を売りにすることで、ベンチ入りができました。

――捕手からファーストに転向した理由は何でしょうか。

吉安 高校レベルの捕手としてスローイング、ストッピング、キャッチングは全然できていなくて、これでは捕手無理なのかなと思って。まずはベンチ入りをしたかったので、打撃ではバットコントロールでアピールしました。飛ばせる力はないので、相手バッテリーから嫌がられる打者を目指しました。

――夏の大阪大会では5番ファーストで出場。大阪大会を勝ち上がる厳しさはどんなところにありますか。

吉安 ほとんどの学校が大阪桐蔭を倒すためにやってくるので、そのプレッシャーや相手の気持ちの強さに呑まれそうになるんですけど、自分たちも「やることはやった」と言えるぐらいの練習は積んできましたので、乗り越えてきました。西谷先生によく言われていたのが、「夏はどのエースも打たれる」。打ち合いになるから、「打ってカバーする必要がある」と。また、「ミスを続けないように」といわれていました。

――大阪桐蔭の宿敵といえば、履正社。やはり他の学校よりも意識されるのでしょうか?

吉安 やはり違いますね。慎重にもなりますし、自分たちは2年秋に初めて対戦したんですけど、怖かったですね。

――研究はどのようにされるのでしょうか?

吉安 偵察メンバーが撮影したビデオを見て、「こういう打球が多いな」と紙に書く。やはり他の相手よりも注意深く見たり、いつも以上にメモをとっていました。さらに相手投手の特徴もビデオで探ります。当時の履正社のエースは岩崎 峻典(東洋大)でした。彼の投げるフォームに合わせて、朝、グラウンドに集まって、映像を見ながらタイミングを取る。そして素振りでは岩崎の投げる姿を想像して振ることを意識しました。

――履正社の存在は自分を高められますか?

吉安 履正社は最後の難関です。履正社に勝てれば、甲子園でも勝ち上がれると確信が持てるほどの大きな壁です。履正社も同じで、大阪桐蔭に勝てば、甲子園でも勝てる。お互いが意識していました。

<吉安 遼哉 よしやす・りょうや>
180センチ85キロ。右投げ左打ち。大阪府大阪市出身。西淀ボーイズ時代は中学通算20本塁打の強打者として活躍。18年4月に大阪桐蔭に入学。2年春にベンチ入りし、2年夏にはレギュラーとなったが、準々決勝敗退。2年秋から副将としてチームを牽引し、近畿大会ベスト4。20年センバツ出場を決めたが、春夏ともに甲子園中止となり、交流試合で東海大相模と対戦し、接戦を制する好リードを見せた。21年4月に法政大に入学。3年春から主力選手として出場している。4年春までリーグ通算47試合出場、152打数31安打、2本塁打13打点、打率.204を記録。