愛知大会――東邦戦の悲劇
そして迎えた高校最後の夏、工藤の運命を変える試合が訪れた。愛知県大会5回戦の東邦戦。試合序盤の3回、打席に入った工藤は顔面に死球を受けた。右目は腫れ上がり、ユニフォームは血で染まった。「球場の看護師さんや連盟からは『救急車で運びなさい』と言われ、誰もが彼の続投は無理だと思っていました」と倉野監督は語る。
しかし、ここで当時の中村豪監督が驚くべき決断を下す。
「このまま彼の高校野球を終わらせるわけにはいかない」と言い、工藤も「1球だけでもいいから投げさせてほしい」と直談判したのだ。
しかし監督の決断には大きな障害があった。校長や理事長に許可を取り付けなければならず、全ての責任を負う覚悟が必要だったのだ。それでも、中村監督は工藤続投の道を選ぶ。「責任は私が持つ」と断言し、工藤を再びマウンドに送り出したのだ。その姿を見た倉野監督は、「監督の采配が選手の未来を変える瞬間を目の当たりにしました」と振り返る。
血でそまったユニフォームを控え選手のユニフォームに変え、止血処置を施した工藤がマウンドに戻る。その時、彼の投球スタイルは劇的に変わった。
「力が入らない状態だったため、自然と脱力して投げる形になり、それが結果的に制球力を安定させました」
工藤はその後、好投を続け、チームを勝利に導いた。
恩師たちが見た奇跡の瞬間
「あの試合がなければ、今の工藤公康は存在しなかった」と倉野監督は断言する。
「選手の人生は、指導者の采配によって大きく左右される。その重みを実感した出来事でした」
試合後、チーム全体が「工藤を助けよう」という強い気持ちで一丸となり、甲子園へと進んだ。
この「一球」が工藤を覚醒させたという事実は、恩師たちにとっても特別な記憶と経験になっている。倉野監督は、「監督の采配が選手だけでなく、野球界全体の歴史を変えてしまう力を持つと気づかされました」と語る。
エースの負傷という危機的な状況を乗り越え甲子園に出場した名古屋電気高。工藤は初戦の長崎西戦で16個の三振を奪い、しかも金属バット導入後初となる『ノーヒットノーラン』の快投を見せると、勢いそのままにチームをベスト4に導いた。
そして同年秋のドラフト会議で西武ライオンズにドラフト6位で指名され入団。その後の活躍は周知のとおりである。実に29年間で5球団を渡り歩き、プロ通算224勝を挙げ日本を代表する投手となった。また監督としても7年間で3度のペナント制覇をするなど実績を残し名将の仲間入りを果たした。
あの「一球」がなければ。
工藤 公康の高校時代を語る時に彼の評価を高校野球界のスターへ引き上げた「ノーヒットノーラン」がクローズアップされがちだが、倉野監督や名電の指導者たちにとっては、それよりも東邦戦でのあの「一球」だったのだ。
そう考えると、その後の活躍は、名電の指導者たちの信念と努力の決断の延長線上にある。「泊まり込みで指導してくれたコーチ、中村監督の勇気ある決断、そして工藤自身の負けず嫌いな性格が重なって、彼の伝説が生まれた」と倉野監督は振り返る。
工藤 公康の「歴史を変えた一球」は、工藤という名投手誕生だけでなく、倉野監督のその後の指導にも今も大きな影響を与えている。指導者たちの覚悟と采配が選手の未来を切り開いた瞬間であり、「選手に信念を持って接する」という倉野監督の指導理念の1つを形成した。まさに「名選手の影に名指導者あり」である。