広島東洋カープの田村 俊介選手。2024年には侍ジャパンにも選ばれた期待の若手である。そんな彼の野球人生は、愛工大名電高校時代にその基礎が築かれた。その背景には、彼の持つ天性の才能、そして倉野 光生監督の指導があった。本稿では、田村選手が歩んできた道のりを倉野監督の証言を交えながら振り返る。

スタート地点――「スーパー中学生」の誕生

 田村 俊介は明徳義塾中学時代から注目されていた選手である。ただ倉野監督が初めて田村を目にしたのは偶然見ていたテレビ番組だった。全国の「スーパー中学生」を特集したその番組で、彼の圧倒的なバッティングセンスと目を奪われた。

 「テレビで見たときに、すごい選手だなとは思いました。ただ、そんな逸材がうち(愛工大名電)に来ることなんてないだろうとその時は全く気にしていませんでした」と倉野監督は語る。しかし、その田村が愛工大名電の門を叩くことになるのは、ある運命的な出来事があったからだ。

「私がお世話になった先生から突然連絡があったんです。『とても良い選手がいるんだが、入れることはできないか』と。それが田村俊介でした」

愛工大名電への入学と鮮烈なデビュー

 田村が愛工大名電に入学したのは異例のタイミングだった。通常、入学枠は早期に埋まるものだが、その年だけなぜか1枠だけ空いていた。

 「16人の枠のうち、田村の年だけ1人分が空いていたんです。本当に偶然でした」と倉野監督は振り返る。

 入学後、田村はその才能をいかんなく発揮した。

 「高校1年生で入ってきたとき、すでに高校3年生レベルでした。打っても守っても何をやっても素晴らしく、1年生で3年生のレギュラーと同等の実力を持っていました」と倉野監督は彼の衝撃的なデビューを語る。

 田村の特筆すべき点は、その才能だけではない。1年生の頃からチーム内で特別な存在感を発揮していた。通常、弁当を食べる際には学年ごとに固まるのが一般的だが、田村は違った。

 「彼はいつも3年生の中にいました。先輩たちの輪に自然と入り込み、自らアドバイスを送っていたんです」と倉野監督は語る。

 「練習試合で3年生のバッターが戻ってくると、『先輩、あんな打ち方じゃダメですよ』と具体的な助言をしていました。それを受け入れる3年生もすごいですが、それだけの信頼を得ていた田村自身がさらにすごい」と、そのエピソードを嬉しそうに話す。

倉野監督が語る田村俊介の「特別さ」

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