なぜ、夏の甲子園で東京は2つの代表枠を持つことができたのか? “絶対権力者”の反対を振り切った一人の名物監督の“力 ”【東西東京大会50周年物語①】
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6月15日、第106回全国高等学校野球選手権東西東京大会の抽選会が行われる。今年は夏の東京大会が東西に分かれて50周年という節目の1年になる。どのようにして東京代表は2校となったのか。その歴史を振り返っていく。(文中敬称略)
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今から50年前の1974年。長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残し現役を引退し、V9を成し遂げた川上哲治の後を継いで巨人の監督に就任した。
プロ野球の一時代が終わり、新しい時代を迎えようとしていたこの年、高校野球でも夏の大会から金属バットの使用が認められるという、大きな変化があった。そしてもう一つ、夏の大会で東京が東東京、西東京の2つに分かれ、2校が出場できるようになったのだ。これにより、東京の高校野球は大きく変わることになり、その変化は、日本の高校野球全体にも影響を及ぼしていった。
一代表時代は夏に勝てなかった東京勢、原因は“過酷な地方大会”
昨年神奈川代表の慶應義塾が107年ぶりの全国制覇を果たした。もっとも1916年に優勝した慶応普通部は、東京代表として出場していた。
東京はそれ以来、長く優勝できない時期が続いた。勝てない東京勢に対し、「ひ弱な都会っ子」という批判もあった。しかしながら、実際は東京の高校野球のレベルが低かったわけではない。
センバツでは、1957年に王貞治投手を擁する早稲田実が優勝したのをはじめ、71年は日大三が優勝。72年は決勝戦で日大桜丘と日大三が対戦し、日大桜丘が勝って優勝している。
ところが夏となると、71年、日大一が4年連続で出場し、大会屈指の左腕・保坂英二を擁し優勝候補であったが、初戦でこの大会準優勝した福島の磐城に敗れた。72年は日大桜丘が出場したものの、東京大会準決勝の拓大一戦で延長18回引き分け再試合をしており、甲子園に来た時はエースの仲根正広は疲れ果てていた。1回戦で高知商に2-4で敗れている。
過酷な地方大会による疲労が、東京が勝てない大きな要因であった。
チャンスが巡ってきた1974年
73年夏の第55回大会で東京大会の出場校は170校。2位である大阪の123校を大きく引き離していた。面積が大きく、参加校も多い北海道は59年の第41回大会から南北北海道の二代表になっていた。「東京から二代表」は、東京の高校野球関係者の悲願になっていた。
60年の第42回大会から72年の第54回大会までは、5年に1度の記念大会を除き、夏の甲子園大会の出場校は30校だった。甲子園に行くには、出場校の多い一部の都府県を除き、近隣の府県と代表決定戦を勝ち抜かなければならなかった。関東地方の場合、単独枠なのは東京と神奈川だけ。栃木と群馬で北関東大会、千葉と茨城で東関東大会、埼玉と山梨で西関東大会を勝ち抜く必要があった。
ところが、78年の第60回大会から各都府県から1校ずつ出場できることが決まった(北海道は2校)。そのため、74年の第56回大会から参加校を少しずつ増やすことになった。東京の代表増枠には、絶好の機会であった。
高度成長期、東京の人口は増え続けており、参加校数は170からさらに増えることは明らかだった。東京都高校野球連盟を挙げて働きかけを強め、74年1月18日、日本高校野球連盟に正式な要望書を提出した。