「調子の波を作らないために」
第14回 「調子の波を作らないために」2010年11月18日
「いつものプレーができなかった」
そんな言葉をよく耳にする。
敗者のコメントに多く聞く言葉だが、聞きようによっては「いつものプレーができていれば勝てた」そう聞こえなくもない。
ただ、個人的に思うのだが、重要なのは「いつものプレーができなかった」ことではなく、「いつものプレーがなぜ、できなかったのか」。ことの問題がそこにあるのではないだろうか。
今回のテーマにしたいのは「調子の波を作らない」人間力についてである。
今季のパ・リーグで10勝を挙げた日ハムの榊原諒が大学生時代に、こんなことを口にしていたことがある。
「調子に波があるかないかは、その人の性格だと思う」と。
この言葉だけで意味が分かるだろうか。
人間性が良くないとか、そういう話を榊原が伝えたいのではない。続けて、こう言っていた。
「調子に波が出るのは日ごろの生活で、やったり、やらなかったりの波があるから。スリッパをそろえたり、そろえなかったり。授業に出たり、出なかったり。10本のダッシュをすべて一生懸命やるのか、どこかで手を抜いてしまうのか。人間に波があるから、調子に波が出てくるのだと思います」
いつものプレーができなかったのではない。いつものプレーができない人間力に、日頃からなってしまっているのだ。
この話は第1回のコラムでも、似たような論点で取り上げたことがある。城東工科の見戸健一監督のコメントをこう紹介した。
「教室、野球部、家と選手には3つの顔があるけど、根本は一つ。三重人格の人間やったら、ココというときに力は発揮できない。」
時と場合によって、行動を変える、態度を変えるということは、そこに芯がないということを意味するのだ。
野球部の時は靴を揃えるのに、家では揃えない。でも、クラスでは揃える。
3つの顔を日ごろから作っていれば、それが野球の中でも出てきてしまうものなのだ。たとえば、学校のグラウンドで試合をしていたのが、球場で試合をする。普通のチームと試合をしていたのが、甲子園常連校と試合をする。決勝戦、テレビ中継、スター選手との対戦…
舞台や対戦相手が変わった時に、日ごろからの生活が影響してくる。3重人格を作っていると試合でも、いつもとは違う自分が覗いてしまうというわけだ。
「いつものプレーができなかった」とは、実はそういうことなのではないだろうか。
明治神宮大会が開催されている神宮球場
西洋のことわざに「習慣は第二の天性」というのがあるそうだ。
足が速いなどの生まれ持っての天性は変えられないかもしれないが、習慣は変えられる。日ごろから習慣で培った力は、人間力として生きてくる。日ごろから波を作らない生活を送っていれば、試合で生かされるはずなのだ。この言葉の意味はそうであると、僕は捉えている。人間力は変えられる。
話を榊原に戻すと、今季、榊原の登板で多かったのは緊急登板である。最初の二勝は、なんと、先発投手のアクシデントから急きょマウンドに登り、きっちりと抑えて、勝利投手をもぎ取ったものだった。
ウオーミングアップに擁した球数は10球に満たなかったというほどだというから、驚きである。
性格に波のある人間だったら、おそらく力を発揮できなかったであろう。どんな状況下でも持っている力を発揮した榊原には、そうした人間力を感じた。
彼の「波のない」性格が、途中登板から10勝を挙げるという大きな勲章を与えた。
僕はそう思っている。
「いつものプレーができなかった」理由を、もう一度、日常の生活から見直していくべきだろう。できると思っていただけなのかもしれないし、言いかえれば「いつものプレーができない」ということが今の力なのだ。
秋季大会があと神宮大会を残すのみとなり、これからは秋の反省と夏に向けての課題を克服する冬に入っていくと思う。技術習得も大事なことだが、それと並行して日ごろの生活を見直すことも、最後の夏、最高の舞台でいつも通りのプレーができる力になる。
(文=氏原 英明)
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