混戦状態から抜け出た木更津総合、専大松戸と東海大市原望洋【千葉・2018年度版】
地域によってのチームの匂いの違いがはっきりする千葉県
習志野ナイン(写真は2017年春季大会より)
県内の高校野球の歴史を見てみると、60年代頃からおよそ20年間、銚子商と習志野という両雄がしのぎを削っている時代があった。千葉県でも特徴的な2地区の代表的な存在が一時代を築いていたのである。昔からの千葉県という土壌に根付いた漁師町で醤油の産地の銚子市と、東京のベッドタウンとして発展していっている最中の習志野市の代表的な学校だ。
千葉市より特急でさらに総武本線を1時間以上も乗って行くと銚子市がある。その市民の誇りが銚子商だった。甲子園が作新学院の怪物投手江川卓で沸いた翌年の1974(昭和49)年に土屋正勝投手(中日→ロッテ)で悲願の全国優勝を果たした頃である。土屋は前年に、2年生ながら延長戦で雨の中、甲子園史上最高の投手と言われた江川に投げ勝って注目された。翌年の銚子商の試合ぶりは1回戦から決勝戦までの5試合を通して失点はわずか1というほぼ完璧に近い内容のものだった。
銚子商が優勝を果たした翌年、今度は習志野が優勝旗を再び千葉県に持ち帰る。ただし、今度は千葉市よりも手前の東京郊外の学校だった。スタンドの雰囲気も、大漁旗が打ち振られ、いかにも無骨な漁師町からやってきたという印象だった銚子商に対して習志野の場合は洗練されたイメージで、都会的なイメージが強かった。このあたりは、同じ千葉県から出てきた同士であってもタイプは全く違っていた。
こうした地域によってのチームの匂いの違いが、実は千葉県の高校野球の特徴といってもいいものだ。ただ、交通の発達とドーナツ化現象による人口の増加、さらには幕張新都心の開発などによって、千葉市手前の地域の都会感覚の人口が圧倒的に多くなってきて、そのことがチームを均等化していったのも顕著である。
実は、習志野はその8年前にも全国制覇を果たしている。この時のエースの石井 好博投手はけん制球の名人だった。これで一気に全国区になった習志野だったが、逞しさよりもしたたかさが、上手さよりも華麗さが光った。そして、その石井投手が監督になって再び優勝を果たしたのが76年である。この時代はまさに千葉県が関東の高校野球をリードしていた時代なのである。
都会的に洗練されているが神奈川県のチームよりも土の匂いの残る雰囲気は特徴的だった。そのリーダー格が銚子商と習志野だったが、市内の名門・千葉商も食い下がっていた。
銚子商、習志野がリードも、各校の躍進で群雄割拠の状態に
千葉経大附ナイン(写真は2013年秋季関東大会より)
さらには、銚子商のもう一つのライバルといわれた成東についても語らなくてはなるまい。ファンの間で伝説化されるくらいの試合があった。ことに、1972(昭和47)年の千葉大会準決勝での成東・鈴木 孝政と銚子商・根本 隆の投げ合いは壮絶な投手戦で、成東の試合などを見ていると、未だにその試合の話をするオヤジに遭遇することもある。それは、それだけ成東の人気も高いということの裏付けでもある。
千葉県の高校野球は、こうして銚子商と習志野がリードし、それに千葉商や成東が食い下がった。やがて木更津中央(現・木更津総合)が抵抗を見せた時代もあった。その後、1978(昭和53)年に印旛が初出場する頃から、俄かに群雄割拠の時代になっていく。そして、これ以降、千葉県では初出場ラッシュとなっていくのだ。我孫子、八千代松陰、市立銚子、銚子西、千葉商大附、東海大浦安などの初出場が相次いだ。やがて、拓大紅陵が現れて落ち着いた。
80年代後半からは拓大紅陵を中心として動いていくことになるのだが、92年に4人の投手を巧みに駆使して継投と分業制を確立。これで準優勝を果たしてピークを作る。その後にはまた、市船橋も台頭し、1996年から1998年まで3連覇。拓大紅陵と系列の志學館や99年には春夏連続出場を果たした柏陵なども躍進する。
再び群雄割拠となり、その後、どこが突出するということなの各校にチャンスがある時代が長く続いていた。そんな中で、2000年には東海大浦安が全国準優勝を果たすなどと言うこともあった。
この頃から、甲子園未出場校でも好投手が多く輩出され、さらに力は拮抗していた。中堅以上のレベルで競い合っていたのが敬愛学園、横芝敬愛、千葉敬愛、中央学院、東海大望洋、千葉英和、西武台千葉、東京学館勢にラグビーとサッカーの強豪として知られている流通経済大柏などだ。 そして、そこに敢然と現れたのが松本吉啓監督を招聘して急速に戦力充実してきた千葉経済大附であろう。04年夏に初出場を果たすと、そのままベスト4に進出。一気に強豪の仲間入りを果たした。
[page_break:2012年から木更津総合、専大松戸、東海大市原望洋のトップ3に]2012年から木更津総合、専大松戸、東海大市原望洋のトップ3に
3校の躍進に好投手の存在は欠かせない。左から上沢直之(専大松戸)、島 孝明(東海大市原望洋)、早川隆久(木更津総合)
一時は、千葉経大附が県内を制したかという印象もあったくらいだったが、その一方で伝統校の成田も復活。90年代か後半から20年ほどの間、県内の高校野球は突出した存在がなく、毎年のように20~30校がほぼ横一線になりながら競い合っていくという構図が続いていた。09年には大会前はまったくノーマーク状態だった八千代東が出場を果たす。よく言えば群雄割拠の混戦状態なのだが、悪く言えば団栗の背比べで、どこも抜けきれないでいたということになる。
甲子園の実績ということで言えば、2010年夏に成田がベスト4に進出して気を吐いている。11年夏には習志野が10年ぶりに出場している。
そうした状況下ではあったが、12年以降3校が抜け出てきた。木更津総合と専大松戸、東海大市原望洋である。
木更津中央から校名変更した木更津総合が力をつけ始めたのは、98年11月に五島 卓道監督が就任してからである。03年以降、夏は6回、春2回の出場を果たしている。また、東海大グループの中で甲子園出場を果たしておらず肩身の狭い思いをしていた東海大望洋も強化され、10年春に初出場すると14年夏にも出場して実力校となっていく。新校名の東海大市原望洋となった17年春にも2度目の出場を果たした。
そしてもう1校、専大松戸も茨城県の竜ヶ崎一や藤代で実績をあげていた持丸 修一監督を招聘。春季県大会では何度も優勝しながら、夏は勝ち切れないという時代もあったが、15年夏に悲願の初出場を果たした。松戸市勢としても初めての甲子園出場だった。
こうして、現在は県内3強が形成されたのだが、盤石な存在ではない。17年秋季では中央学院が一気に上り詰めて、関東地区大会も制してセンバツ出場を決めた。こうして、未出場校にもまだまだ希望の光があるのが千葉県だ。関東中時代以降、久しく全国の舞台から遠ざかっている千葉敬愛をはじめ、前述校以外でも千葉英和や千葉明徳、千葉黎明、日体大柏に検見川、四街道、市立松戸などの公立校勢も機を窺っている。
(文:手束 仁)