コロナで甲子園中止がありながらも、当時の主将・内山連希(聖光学院OB)が学んだもの
提供:内山連希
今年5月8日から新型コロナウイルス感染症の位置づけは「5類感染症」となった。法律に基づき行政手動の仕組みから、国民の自主的な取組をベースとした対応に変わった。夏の甲子園も生演奏、声出しが解禁となり、伝統の甲子園らしさが戻ってくるだろう。そんなタイミングだからこそ、今もう1度、コロナの時の高校野球を考えてみたい。3年の月日がたった今、当時の球児は何を考えているのだろう。
当時、聖光学院(福島)でキャプテンを務めていた内山 連希内野手に話を聞いた。
内山が新キャプテンに任命されるまで、聖光学院は2007年から13回連続夏の甲子園出場を決めている。そんな重圧の中、14回連続出場を命題にキャプテンになったのが内山である。そんな中で行われた秋の大会で聖光学院は初戦コールドで負けという結果で始まった。
これが内山が引っ張る聖光学院の船出だった。春でリベンジしたい聖光学院だが、コロナはそれを許さない。春の大会も中止がきまり、そして迎えた夏の大会も無惨にも中止が決まった。
当時の状況を「春、夏とリベンジできる大会がなくなってしまった。そういうことも含めて、頭が真っ白でした」と振り返る。
ただ、勘違いをしないでほしいのは、内山の言葉からは愕然とした「失望感」は伝わってこない。淡々と言葉を紡いでいるのである。「頭が真っ白」という中でも、実に冷静に状況を見ている。
「インターハイなども中止になり世の中的にしょうがない」「でも本当に中止にするほどものなのか?」
当時の内山の正直な気持ちである。世の中の状況も理解し、また当時の感染者数が一時減って来ていたことなどを、事実とし受け止めて、自分なりのアウトプットを出しているのである。心がブレずに、事実を見つめているのである。そうなると俄然、興味が出てくるのが、その考えに至るまでの内山の思考である。
内山の話に出てきたのが、斎藤智也監督と横山 博英部長である。
「斎藤監督を含めて指導者の方から野球も教わってきましたが、人として成長することも教わってきたんだなあ、と今になっても思います。自分たちが都合の悪い状況に立たされたときでも、自分たちができることをしようというのをチームとして徹底できたと思うので、そういう面では人として成長できたのかなあと思います」
どのような状況でも、今できることに最善を尽くす。野球だけでなく、人としての生き方が込められている言葉である。内山はそんな考え方を聖光学院で野球をしながら自然と身に着けていったのかもしれない。
では、まさにコロナで甲子園が中止になった時の内山のマインドはどうだったのだろうか?
「横山部長に言われた言葉で、甲子園がなくなったときに、甲子園に行きたいという志があって集まってきた仲間が、日頃の辛い練習などを乗り越えられたのは、心の中に「甲子園を目指す」というのがあったからやってこられたのだから、本当の甲子園はなくなっても、目指してきた甲子園は心の中にある。その「心の中の甲子園」を目指して最後までやりきろうと言われて、それで、「心の中の甲子園」を目指して来たというのは、ありますね」
言いかえれば、目標に対するアプローチを少し変えることで、目標からブレずに進み続けるというアプローチを行っているのである。言葉では理解できるが、甲子園だけを考えて3年間努力を積み重ねた高校生に、夏の大会中止をかみ砕いて、理解して行動できるだろうだろうか?
それをやりきれるところが内山であり、聖光学院での指導の賜なのだろう。
(内山連希さん)
「困難な状況でも、現状での最善を尽くす」
斎藤監督と横山部長の伝えたいことを聖光学院で3年過ごした内山は汲み取れているから、心がブレなかったに違いない。ようやく内山の思考の一部を理解できたようなきがする。
「これから続く人生の中で、自分たちしか得られなかった経験(コロナでの大会中止)ではあると思うので、これから大人になったときに、あの意味の出来事ってこういう意味だったんだ、とか思える人生になっていければいいなと思っています」
最後に笑顔でこう話してくれた内山は、すでに先を見ている。どんな状況でも、冷静に理解してアウトプットする。感傷的になるわけでもなく、淡々としているのである。きっと内山は、なぜ甲子園中止という経験を自分がすることになったのか答えをいつか見つけるだろう。
内山の内面に話がいったが、当時の聖光学院の夏の独自大会の結果に触れて置かなければならない。聖光学院は秋のリベンジを夏の独自大会でできたのか?
答えは、独自大会の優勝、そしてその優勝校が競う東北大会での優勝である。
「独自大会での優勝、東北大会での優勝は一番心に残っています。あの瞬間は忘れられないですね」。内山のこの言葉に、すべてが詰まっている。
(写真はすべて内山連希 提供)