富島高校【前編】「ないない尽くし」から5年で掴んだ甲子園
1月26日。選抜への初出場を決めた富島。昨秋は県大会準優勝で乗り込んだ九州大会。九州を代表する学校との激戦の末、見事準優勝を飾りセンバツの切符を掴んだ。しかしここに至るまでは楽な道のりではなかった。現在の監督、濵田 登監督が就任してからどのように甲子園まで辿り着いたのか。この軌跡を追っていく。
「3年で九州大会、4年で甲子園に連れていきます!」
中川コーチの指示を聞くナイン(富島)
2013年、宮崎商から異動した濵田 登監督は新任職員の歓迎会でそんな抱負を語った。「失笑されました」と苦笑する。学校は16年度で創立100周年、野球部は1948年にできて60年以上の伝統はあるが、それまで甲子園はおろか、九州大会にも出たことがなかった。
「宮崎南の野球部員だった古川 和樹副部長は「対戦相手が富島だったら『安パイ』だと思っていました」という。06年秋、1年生だった宮崎商の赤川 克紀(元東京ヤクルト)が8連続三振を奪った相手が富島だったことを濵田監督も覚えていた。野球の実績も伝統もない学校に赴任していきなり「甲子園」と啖呵を切ったわけだから失笑を買うのも無理はない。
だが「やるからには、じっくり時間をかけてなんて悠長なことを言っても始まらない。そのぐらいのスピード感を持ってやるということです」と濵田監督は本気だった。15年秋、宮崎県大会で準優勝して「公約」通り3年目の秋に初の九州大会出場を果たした。
17年秋、再び県大会準優勝で、地元・宮崎であった九州大会に出場し、文徳(熊本)、長崎商、東筑(福岡)と並み居る九州の強豪に競り勝ち、決勝へ。創成館(長崎)に敗れたものの準優勝でセンバツ出場を果たし、春夏通じて初の甲子園出場権を勝ち取った。公約からは1年遅れたが5年目で甲子園への道を開いた。「出来過ぎです」と濵田監督は謙遜するが、スピード感を持った本気の取り組みが選手や学校、地域を動かし、初の甲子園への起爆剤となったことは間違いない。
ゼロから作り上げる
練習中の様子(富島)
多くは語らないが、相手の目をまっすぐ見つめるまなざしに迫力と信念を感じる。濵田監督は、母校でもある宮崎商の監督を10年やって、08年夏には赤川を擁して夏の選手権出場も果たしている。実績も伝統もある母校とは対照的な富島への異動になって、強豪私学の監督からは「あそこを強くするのは相当難しいのでは?」と同情されたという。
伝統校の母校で甲子園出場の実績も作ったが、「宮崎商だからやれた」という声もあった。次に異動する先を考えたとき、伝統がない学校で野球部を作り上げて実績を作れば、自分の指導方針や指導力が間違っていなかったという証明にもなる。富島への異動は半ば自身の希望でもあった。
「3年で九州、4年で甲子園」と大きな目標を掲げゼロから野球部を立ち上げる意気込みでグラウンドに立ったが「ないない尽くしに驚いた」と苦笑する。そもそも部員がいなかった。2年生が5人、3年生は1人もいなかった。前年秋には部員不足で大会にも出ていない。13年春の大会は都農と合同で出場した。1年生が6人入部することになっていて、夏の大会出場は単独出場が可能だが、甲子園や九州大会を目指す前に、「1勝する」ことはおろか「公式戦に出る」ことさえ危ぶまれる学校だった。
学校は商業科、会計科、生活情報科など全日制5学科に定時制1学科があり、全校生徒数は590人。この内、女子が436人と7割以上を占める。野球などスポーツの強豪校というよりは女子の実業学校のイメージが強い。野球部は70年の歴史はあるが「昔は弱くて、お金もなくて軟式のバットで試合に出たら試合中に折れたという話をOBがしていました」と和田 光央教頭は言う。
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練習中の様子(富島)
グラウンドの土は荒れ、防球ネットもない状態だった。事務室に掛け合ったり、OBや保護者の協力も得て、内野に黒土を入れ、ネットを張り、打撃練習のための鳥籠を作った。部員には携帯電話を禁じ、身体を作るためプロテインなどの強化食を導入した。こういった取り組みを始める際には「必ず保護者を集めて、きちんと説明してから導入を決めた」。
2年目の春からは中川清治氏がコーチとしてスタッフに加わった。中川コーチは学校の近所にある建築会社・建総の専務であり、社長が濵田監督と同じ宮崎商の先輩という縁で指導に加わることになった。学校のある日向市内でソフトボール少年団の指導に長年携わった経験があり、地元の小中学生の野球事情に通じていた。実績のない富島は地元の優秀な野球少年が進路の選択肢として選ぶ学校ではなかったが、中川コーチの案内で濵田監督が熱心に声を掛けて回った。
16年春からは濵田監督の宮崎商時代の教え子で上武大出身の中尾拓が建総に就職し、コーチ陣に加わって、スタッフはさらに充実した。建総の社員寮を改装し、日向市外から通う部員のための野球部寮もできた。
そういった取り組みが早々と実を結び、15年秋に県大会準優勝、翌16年春は優勝し、2季連続で九州大会出場を果たした。
後編では甲子園までのプロセスと、選抜に向けての取り組みを伺います!
(取材・文=政純一郎)