歴史を作った鳥取西から倉吉北、鳥取城北の時代へ
甲子園で実績を残す鳥取西とそのライバルの米子東
高校野球の歴史を作った学校である鳥取西
100年を超える歴史となった高校野球の記録だが、その記念すべき第1球は鳥取の選手によって投じられている。第1回全国中等学校野球優勝大会の開幕試合で広島中(現:広島国泰寺)と対戦したのが鳥取中(鳥取一中→現:鳥取西)だった。後攻の鳥取中・鹿田一郎投手が投げたことで、高校野球の歴史が始まったのだ。
そういう意味では、その強弱に関係なく、鳥取県が高校野球に果たした役割と位置づけは大きいといえる。そして、この鳥取中は鳥取西と名前を変えた今でも、県内では強豪校であり続けると共に、県内屈指の進学校という立場もしっかり維持している。つまり、文武両道の伝統を維持し続けている県内屈指の名門校なのである。
鳥取西が甲子園では決定的な記録がないのは、比較的雪が多く気候も不安定な山陰地区という地域的なハンデがあり、仕方がない部分もあるだろう。それに、人口も少なくやはり中央からは少し離れているという要素は、いろいろな部分に表れるのも文化活動の常である。それでも、鳥取西が立派なのは春4回、夏23回の出場で通算52試合を甲子園で戦い、25勝27敗とほぼ勝率5割を維持していることだ。これは見事な成績だ。そんなところにも、高校野球の歴史を作った学校という立場をしっかりと維持しているといってもいいのではないだろうか。
ただし、このところ若干低迷しているようなので、そのあたりはオールドファンたちも歯がゆい思いをしているようだ。
その鳥取西のライバル校が米子東である。地元では「ベイトウ」の名で親しまれている。米子東は米子中時代に6回、そして戦後になって米子東として60年春には準優勝を果たしている。しかも、決勝戦は高松商にサヨナラ負けを喫するが、1点を争う試合だった。これも、鳥取県としては輝かしい歴史でもあろう。
鳥取西のエンジに対して米子東の緑が鳥取県のライバルのコントラストにもなっている。通算出場回数は鳥取西が多いが、準優勝という一つの歴史は米子東の誇りだ。また、鳥取西が鳥取一中だったのに対して、米子東は前身としては鳥取二中として存在していたという歴史がある。そんな背景もあって、この両校のライバル的な意味はより強いといえるのではないだろうか。
鳥取県のレベルを上げた倉吉北と近年突出してきた鳥取城北
近年突出してきた鳥取城北
この両名門に負けない歴史を持っているのが倉吉東だ。明治末期の創立で野球部は第1回大会から欠かすことなく地区大会に参加し続けていた。そして、88年春に創部75年目にして初出場をつかんでいる。
その倉吉という市はそれ以前に高校野球では私立の倉吉北によって認知されていた。倉吉北は75年春に初出場を果たすが、以降比較的頻度よく甲子園に出てきた。ただ、倉吉北の場合、その実績そのものよりも、選手のほとんどが大阪など関西出身の選手ということで、一部スポーツマスコミなどから、「野球留学の外人部隊」などと非難された。言うならば、野球留学の先駆でもあるのだ。この倉吉北の存在によって確実に鳥取県の高校野球のレベルは上がったということはいえる。81年春には四国、東海などの野球どころの代表校を相次いで倒してベスト4にも残っている。
そして、倉吉北の活躍によって少しでもレベルは上がり、それに負けまいと、名門が復活し、境や八頭、鳥取商といったところも実績を残してきた。境は16年夏にも復活出場を果たしている。
そんな勢力構図が続いていた中から、近年突出してきたのが鳥取城北だ。相撲部が強豪として知られており、角界にも多くの力士を送り込んでいる。09年夏に初出場して以降、12年は春夏連続、13年夏も2年連続で出場し、15年夏も出場するなど、7年間で一気に5回の出場を果たしており、現在では鳥取県内で最も安定した実績を挙げている存在だ。また、米子商から校名変更した米子松蔭も17年夏には二回戦で鳥取城北を下して、17年ぶりに出場するなど力を示している。
(文:手束 仁)