山田知輝「東洋大が誇る急成長株は、強い覚悟と決心をもって打者に挑んでいた」【前編】
4季連続優勝に向けてリーグ戦を戦う、戦国東都の名門・東洋大。その東洋大でドラフト戦線に急上昇した選手が、山田知輝だ。
春季リーグ戦では最多となる5本の本塁打を放ち、自身初のベストナインを受賞。井口資仁監督と村田修一氏が持つ1シーズン8本塁打に残り3本と迫っていた山田は、投手として東洋大に入学し、大学2年生の秋から本格手に野手に取り組んできた。
約2年間で山田はいかにして東都が誇る注目スラッガーになったのか。そのルーツに迫った。
山田のバッティングの根源は、「フライを打て、ホームランを打て」
山田知輝(東洋大学)
山田が野球を始めたのは小学2年生。
「父がそのチームで監督をやっていまして、厳しかったですし、怖かったです」と当時のことを苦笑いしながら振り返る山田に、さらに小学校の頃のバッティングについて語ってもらった。
「野球を始めた時からバットをしたから出しやすいスイングをしていました。それに対して、『上から叩け』って指導はされました。それは中学でも言われましたが、癖になっていて自分には合っていませんでした」
そんな山田に対して、「フライを打て、ホームランを打て」とアドバイスを送ってくれるコーチとともに毎日練習してバッティングを磨いていった。それが今のバッティングに関係していたことは、のちに触れたい。
その後、山田は地元の中学で軟式野球をやり、高校から桐生第一へ進学する。
「幼稚園の時の友達が桐生第一から誘いをもらっていて、その友達と相談しました。あとは、甲子園優勝経験がある桐生第一が自宅から近くて、当時は福田監督がいたのが決め手になりました」
こうして山田は桐生第一へ進学。入学してからバッティングをかわれ、サードとして春から試合に出場。1年生の夏からピッチャーとしてベンチ入り。高校2年生の春の選抜に出場すると、ベスト8進出。最後の夏は甲子園とはならなかったが、投打で注目を浴びた山田は東洋大へ進む。
しかし、大学では思ったような成果を残せない日々が続いた。
[page_break:強い覚悟をもって決心した打者転向]強い覚悟をもって決心した打者転向
ティーバッティングをする山田知輝(東洋大学)
東都の名門・東洋大に進学した山田は1年生ながらベンチ入り。ピッチャーとして幸先よいスタートを切った山田だったが、2年生に進級する前に大きな壁が立ちふさがった。
「ボールが思うように投げられなくなってしまい、春のリーグ戦を諦めざるを得なかったです。そこで、夏に行われるサマーリーグでの登板に照準を合わせて練習しました。でももしそこで結果を残せなかったら、『打者へ転向しよう』と思いました」
強い覚悟で挑んだサマーリーグだったが、確かな結果を残せず、山田は2年生の秋より打者へ転向。1からスタメンを目指すこととなった。
「まずはチーム内の競争に勝たないといけなかったですね。周りは1、2年間野手として練習してきた中で、自分はピッチャーとして過ごしてきた。その時点でバットを振ってきた数が違いました」
バッティング練習では打球を飛ばすことが出来たが、実戦形式で相手バッテリーの配球の前に苦戦を強いられた。
「飛ばす力はあったので、試合には起用してもらえました。ただミートが悪かったので、杉本監督には多くのことを教わりました」
その後、結果を出すために山田の試行錯誤は続いたが、3年生の春のリーグ戦・亜細亜大戦で初めてヒットを放つ。
「中村 稔弥さん(千葉ロッテマリーンズ)から初ヒットを打ちましたが、嬉しかったですね。野手転向をしてよかったと思えました」と振り返る山田。
山田はその年、秋季リーグ戦では開幕スタメンを奪取。確実に成長してきたが、再び不調へ。14打席でヒットなしでスタメンから外れ、そのままヒットなしでリーグ戦を終えた。
山田は再びバッティングを見直し、試行錯誤の日々を過ごす。その中で見出した答えが『フライボール革命』。小学生時代にコーチに言われた「フライを打て、ホームランを打て」というアドバイスに、偶然にも立ち戻ることとなったのだ。
前編ではここまで。後編では、山田選手が取り入れた『フライボール革命』について。そしてある東洋大OBから教わった金言。最後に理想の選手像を伺った。後編もお楽しみ!
(取材=田中 裕毅)