大打者・張本勲も発展に寄与した韓国高校野球草創期【韓国の高校野球事情①】
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SK監督時代の金星根(写真提供:大島裕史)
張本勲も参加した在日僑胞学生野球団の母国訪問試合
1945年、朝鮮は日本の植民地支配から解放されるが、北緯38度線の北側をソ連が、南側をアメリカが軍政を敷いた。48年に南北それぞれに政府が樹立され分断国家になり、50年には朝鮮戦争という悲劇を迎える。そのため韓国には米軍が常駐するようになり、米軍を通じて韓国野球はアメリカの影響を受けるようになる。54年に第1回アジア野球選手権がフィリピンで開催されたが、最初の試合が日韓戦になった。この時使用球を日本製にするか、韓国が持参したアメリカ製にするかで議論になり、妥協案として4回まではアメリカ製を使い、5回からは日本製を使ったという話もある。
韓国で使う野球用具の多くは、米軍からもらい受けた物が多かったが、バットなどは体型が違う韓国人には使いにくかった。しかし韓国の初代大統領である李承晩(イ・スンマン)は、日本との交流を頑なに拒否しており、日本製はほとんど入ってこなかった。
そうした日本との交流に風穴を開けたのが、56年に始まる在日僑胞学生野球団の母国訪問試合だった。これは54年に創刊した韓国日報が企画したイベントで、主に甲子園大会に出場できなかった在日コリアンの球児を集めて作ったチームが、韓国各地を転戦したものだ。大会に先立ち主催の韓国日報は、56年7月28日付の紙面で「本社が贈る空前の大球宴 満都の人気 既に高潮」と書き、ムードを盛り上げた。この遠征は97年まで続くが、当初は在日チームが圧倒的に強かった。
母国訪問の3回目となる58年には、日本プロ野球で最多の3085安打を記録している張本勲も参加している。張本は韓国での最初の練習で4スイング中3本が本塁打という打力を誇示し、韓国の人たちを驚かせた。当時張本と対戦した韓国の野球関係者に話を聞くと、「とにかくあの人は、体もでかいし迫力があった」と語っている。張本はこの年、東映(現日本ハム)に入団するが、この遠征をきっかけに張本の知名度や人気が韓国でも高まった。韓国の野球少年たちは、張本の背番号である10番をつけたがったという話もある。
翌59年には京都・桂高校のエースである金星根(キム・ソングン)が参加している。金星根は卒業後韓国の実業団でプレーし、韓国代表にもなった。82年にプロ野球が誕生すると7球団の監督を務め通算勝利数が1234で、これは韓国プロ野球の歴代2位の記録だ。SK(現SSG)監督時代に3回優勝しているが、優勝したことよりも、戦力が劣るチームで優勝争いに加わるところに真骨頂がある。選手の育成や起用、戦術眼には定評があり、韓国では「野神(野球の神様)」と呼ばれている。金星根はロッテやソフトバンクといった日本の球団でもコーチをしている。
在日チームは遠征のたびに野球用具を寄贈した。体格が近いだけに、日本の野球用具は韓国の選手に好まれた。また彼らの試合は大勢の観客を集め、高校野球人気が高まるきっかけになった。実力的には在日チームが圧倒的に強かったが、彼らに勝つことを目標に練習したことが、韓国の高校野球のレベルを引き上げた。
60年にソウルの京東(キョンドン)高校は、韓国の全国大会を相次いで制した。この年の在日チームは韓国で13勝1敗2分であったが、京東には1敗1分と負け越した。
京東の監督であった金日培(キム・イルベ)は、50年代半ばは陸軍チームの監督として米軍と頻繁に試合をしていた。そのため、打者によって守備位置を変えるといった当時としては最先端の野球を用いていた。さらに全体練習は1日2時間で、あと個人練習だったという。今日の韓国では授業をほとんど受けないで1日中練習しているチームもあるが、金日培監督の野球の方が、むしろ進んでいた感じがする。そしてこのチームには、1人のスーパースターがいた。
60年4月に日本との交流を拒んでいた李承晩政権が崩壊する。そしてこの年の秋、京東の日本遠征が実現する。これが日本と韓国の高校野球の交流の始まりとなる。
京東は九州から始まり、山陽、近畿と転戦して、最後は神宮球場でその年の秋季都大会で優勝した日大二と対戦する。この試合で京東の4番の白仁天(ペク・インチョン)は本塁打を放つ。木製バットの時代である。当時の東京六大学野球で4年間の通算本塁打の最高記録は立教大の長嶋茂雄の8本だった。それだけに高校生が神宮球場で本塁打を放つことは、まずなかった。この活躍で、白仁天の名前は日本球界でも広く知られるようになる。そして62年に張本のいる東映に入団する。これから戦後、韓国から日本のプロ野球に入る最初のケースになった。白仁天は81年まで日本の4球団でプレーし首位打者にもなる。82年に韓国にプロ野球が誕生するとMBC(現LG)の監督兼選手となり、この年打率4割を記録している。
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左から張本勲、金田留広、白仁天(写真提供:大島裕史)
在日チームの人気や白仁天の登場で韓国の野球に人気は高まり、60年代と70年代に空前の高校野球ブームを迎える。そして65年に日韓の国交が正常化すると、日本の高校野球との交流と対決の歴史も始まる。その点については、次回に紹介したい。
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◆【韓国高校野球事情②】
◆【韓国高校野球事情③】