“超不人気”だった東京の高校野球を「3つの出来事」が変えた! 東京ローカルチーム・桜美林の全国制覇、都立高の甲子園出場、そして……【東西東京大会50周年物語②】
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早稲田実時代の荒木 大輔
東京の高校野球を変えた3つの出来事②都立校が甲子園へ
80年の夏は、異常なほど涼しく、雨の日が多かった。この冷夏に躍動したのが、都立国立だった。
都立国立が注目されるようになったのは、準々決勝の佼成学園戦からであった。変化球でコーナーを丁寧に突くエースの市川武史は、5年前の甲子園に出ている強豪相手に延長18回を1人で投げ切り、1-1で引き分け再試合になった。この試合で佼成学園のエースであり、主将であり、4番打者であったのが、現在母校の監督である藤田 直毅だった。藤田は5回を投げて降板し、ライトの守備についていた。
引き分け再試合になっても、藤田は負けるとは思っていなかったという。ところが翌日、昭島球場は超満員になり、都立国立を応援する熱気に包まれた。前日18回を投げた市川は、この試合でも完投。都立国立が6-3で勝ち準決勝に進出し、堀越を完封して決勝戦に進出した。
神宮球場での決勝戦は、ともに初出場を目指す駒大高と対戦。試合は緊迫の投手戦になったが、都立国立が9回表に2点を入れ、市川が完封。都立国立が甲子園出場を決めた。
試合後9回表に2点が入った時の感想を聞かれた市川は、「ヤバいと思いました。甲子園なんか行って、僕たち恥ずかしくない野球ができるか、心配になりました」と語っている。都立国立は進学校。市川は8月、予備校の夏期講座を受ける予定であったが、甲子園行きになった。
<都立が勝った>という1面の大見出しを掲げた80年8月1日付の『日刊スポーツ』は、明大野球部監督で都高野連副会長であった島岡吉郎の次のようなコメントを載せている。
〈すばらしい偉業です。東京都の高野連は半分近くを都立校が占めているがこれがきっかけになって他の都立が伸びれば全体のレベルアップになる。しかし、国立ナインは浪人することになるでしょうな。来年、あのメンバーが一挙に東大に入学したら、うちの優勝は無くなってしまうよ〉
実際、市川は1年浪人して東大に入る。明大は負けることはなかったが、市川の投球には苦しめられた。
なお、都立国立は甲子園では大会初日の第3試合で前年優勝の箕島と対戦。0-5で力負けした。それでも都立国立の優勝は、東京の高校野球全体の底上げにもつながった。
そしてもう一つ記しておきたいのは、当時東京は「学校群制度」であったということだ。当時の選手たちは都立国立を受験したのではなく、都立立川とセットになった72群を受験した。都立国立に行くか、都立立川に行くかを受験生は選ぶことができない。そんな選手たちが成し遂げた快挙だった。「学校群制度」は81年に廃止になっており、学校群制度での最初で最後の甲子園出場であった。