2006年夏にあった斎藤佑樹“もうひとつの激闘”!早稲田実vs.日大三、西東京大会決勝【東西東京大会50周年物語⑤】
早稲田実時代の斎藤 佑樹氏
6月15日、第106回全国高等学校野球選手権東西東京大会の抽選会が行われた。
【トーナメント表】夏の東東京大会 組み合わせ
【トーナメント表】夏の西東京大会 組み合わせ
今年は東西に分かれて50周年という節目の歴史を振り返る。平成の時代、強打の日大三、斎藤佑樹フィーバーを起こした早稲田実など、全国の高校野球ファンを虜にするチームが現れていく。(文中敬称略)
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99年、東東京からも都立高が甲子園へ!
世田谷区が加わった96年の東東京大会では、早稲田実が準決勝で駒大高、決勝で国士舘という世田谷区の学校を破って、荒木大輔の時以来、14年ぶりに優勝した。92年に和泉実が監督に就任してからは初の甲子園。01年に国分寺市に移転した同校の、最後の東東京大会での優勝になった。
97年は岩倉が、決勝戦で早稲田実との打撃戦を制し、14―12で勝って夏の初出場を決めた。84年のセンバツで桑田真澄、清原和博を擁するPL学園を破り優勝した岩倉だったが、その後は不祥事もあり苦しい時代が続いた。90年に福岡の常磐高―亜細亜大出身で、江戸川学園取手で部長・監督をした磯口洋成が監督に就任。先輩、後輩の上下関係のあり方を改めるなど、チームの一体感を作ることからはじめ、手にした夏の栄冠であった。
松坂大輔擁する横浜が春夏制覇をした98年の東東京大会は、帝京が準決勝で早稲田実、決勝で二松学舎大附を破り優勝した。このチームの主将で遊撃手は、日本ハムなどで活躍する森本稀哲だった。帝京は3回戦で現ソフトバンクの和田毅投手を擁する浜田と対戦。8回に森本の2ランで同点に追いついたが、その裏勝ち越され敗れている。
99年の東東京大会は都立城東が準決勝で早稲田実を8-7で破り決勝進出を決めた。決勝戦の相手は、19年前に都立国立が甲子園に行った時と同じ駒大高だった。この年の駒大高はその年のセンバツ出場している強豪だった。それでもエースの池村隆広が被安打4で完封。東西合わせれば国立以来、東東京大会では初の都立校の優勝だった。当時38歳の有馬信夫監督(現都立足立新田監督)に鍛えられた城東は、それまでの都立校にないたくましさがあった。なお敗れた駒大高の川端教郎主将は、現在同校の監督である。
国立の時は和歌山の箕島と対戦したが、城東もまた智辯和歌山という和歌山勢と対戦し、2-5で敗れた。
世田谷区の編入で、一気に戦国化した東東京
2000年は準決勝で早稲田実が日大豊山に延長10回7-8の接戦の末敗れた。これで、東東京での早稲田実の歴史は終わった。早稲田実を破った日大豊山は決勝戦でも国士舘を5-4の接戦を制し、甲子園初出場を決めた。当時都内の日大の付属の中では、女子校を除き唯一甲子園経験がなかったので、まさに悲願の優勝であった。
01年は準決勝で関東一をコールドで破った城東が、決勝戦では岩倉を5-4の接戦で破り、都立校では初めての2回目の優勝を決めた。有馬監督は都立保谷に異動したため、梨本浩司(現都立文京監督)が監督を務めた。東東京大会で本塁打3本の活躍をした内田稔は、現在城東の監督を務めている。
02年は決勝戦で二松学舎大附を破った帝京が、順当に甲子園に駒を進めた。帝京は甲子園でも準決勝まで進んでいる。なおこの時のメンバーには、現在同校の監督である金田優哉が入っている。
03年の東東京大会は、準決勝で安田学園との延長13回の死闘を制した都立雪谷が決勝戦に進出した。決勝の相手は好投手の小杉陽太(現横浜DeNAコーチ)を擁する二松学舎大附だった。この試合、雪谷の太田章夫と二松学舎大附の小杉の投手戦になったが、雪谷が9回表に一挙5点を挙げて勝って、甲子園大会に出場した。甲子園では初戦にPL学園と対戦し、1-13で敗れた。
04年の東東京大会は、小田川雅彦監督率いる修徳が、決勝戦で二松学舎大附を3-2で破り、11年ぶりの優勝を決めた。甲子園でも修徳は初戦(2回戦)で背番号11の2年生・斉藤勝が被安打7の完封で鹿児島実を1-0で破り勢いに乗り、準々決勝に進出した。
05年はセンバツには当時の段階で7回出場、4強2回と実績を残しながら、夏の優勝はなかった国士舘が、圧倒的な強さをみせ、初めての夏の甲子園出場を決めた。
このように、96年に世田谷区が加わったことで、東東京大会は混戦に拍車がかかった。10年間で都立勢が3回優勝。初優勝が5回とまさに戦国大会の様相を呈していた。その一方で市原勝人監督率いる二松学舎大附は、2年連続で決勝戦で敗れるなど、あと一歩の壁を越えられないでいた。