宮路 悠良(東海大高輪台)「己の甘さを自覚。そして成功体験を糧に更なる高みへ」
2017年ドラフト注目株、東海大高輪台・宮路 悠良(みやじ・ゆら)投手。身長185cm、体重85kgの恵まれた体から繰り出される最速147キロの直球を武器とする本格派右腕だ。3年夏にチームは東東京大会で準優勝に輝く大健闘を見せ、プロへの道を選ぶことになった宮路のここまでの野球人生を探る。
取り組みの甘さを指摘される日々と、変化の時
宮路 悠良(東海大高輪台)
小学校1年生の時、プロ野球中継から野球に憧れ、野球人生をスタートした宮路。同時に、自ら希望して投手としてのキャリアもスタート。そして中学時代は、強豪・駿台学園の軟式野球部の一員となる。強いチームというだけあって練習量も多く、「高校時代より厳しかった」と振り返る中学時代。3年次にようやく投手としての役割を任されるようになり、主に中堅手として出場し、エースの中西 翔(現・日大山形)の後に登板するケースが中心だった。
そして東海大高輪台に進学することになった宮路。自宅からの距離も近く、何より東海大高輪台は「東海大系列で唯一、甲子園に行ってないチーム」であり、そのチームを初めての聖地に導きたいという気持ちが決め手となった。
投手としてプロ入りを希望する宮路だが、実は野手としての評価も高い。1年生の夏からいきなりベンチ入りを果たし、1年秋には背番号8、「2番・中堅」のレギュラーの座を確保。同時に、投手としても準決勝でリリーフ登板するなど早い段階から実戦も経験。2年生夏ごろにはすでに約140キロを記録するようになり、順調に思える野球人生だが、当初から「取り組みの甘さ」を指揮官の宮嶌 孝一監督からは長く指摘を受ける日々だった。
「自分ではやってるつもりだったんですけど、周りから見たらまだまだ甘いと言われていて」と宮路が語るように、そういう部分を本当の意味で自覚するには時間を要するのが常だ。毎日練習はするものの、練習試合など実戦の場ではなかなか結果が出ず、甘さが原因と言われつつも長い間、意識の改善には達しなかった。
問題を自覚し、本当の意味で改善に向かうまでは時間を要した。そのきっかけは、新チームとなった2年秋の大会だ。大量失点を喫して敗戦した悔しさから、徐々に日々の取り組みも積極的に。それでも、冬を越えた3年春も実践学園戦で同じように打ち込まれて敗れてしまい、この時にはっきりと今までの自分の甘さを感じるようになった。
147キロ右腕の練習法とブルペンへのこだわり
宮路 悠良(東海大高輪台)
最速147キロ右腕と呼ばれる宮路。高校生としてはトップクラスの球速に到達するまではさまざまな要素が絡み合った。まず一つは、ウエイトトレーニングだ。「中学時代まではやっていなかった」といい、高校時代に取り入れてからスピードは順調に伸びた。さらにオフシーズンには、独自で投球フォームの見直しを行い、これが成功したのも一つの要因だと本人は言う。
普段は投手コーチに指導を受け練習に励む。「選手の良さを生かす指導をしてもらった」といい、制球が課題の宮路は、「ブルペンなどで球数が少ないピッチャーは成長が遅くなる。スタミナをつける面でも、コントロールをつける面でも、ブルペンで多く投げないといけない。そうじゃないと指先の感覚が掴めない」とアドバイスを受けた。
宮路はその言葉通りブルペンでの投球を重視。1年次は「1日50球ぐらい」だったが、今は「納得いくまで投げているので数えていない」というほどまで増加。特に夏前は多くブルペンに入った。
147キロを計測したのは最後の夏大会の直前、練習試合のとき。フォームのバランスや体の使い方が思い通りになり、自分でも好感触を掴んだ結果として、自然と数字もついてきた。「最後の最後にようやく良くなってきた。やっとピッチャーらしくなれた」と本人は振り返る。
プロ入りを決意した夏の帝京戦
宮路 悠良(東海大高輪台)
最後の大会では主にリリーフで登板。準々決勝では東東京の強豪、帝京戦に登板し、ここが宮路にとってのターニングポイントとなる。
状態は快調ではなかった。長打力があるチーム相手に一発を警戒する中で、直球が高めに浮いてしまい被弾。ここで捕手と相談し配球パターンを変更。「ストレートが走っていない中で、どうやって打者を抑えるかをブルペンでイメージしていたことがうまくいった」と本人が言うように、スライダー主体で変化球を低めに集め、強打の帝京打線を退けた。
強打の帝京打線相手にも抑えられたことで、もっと上、プロの指導を受けて成長したいと思いが強くなった。もし、帝京に負けていたら「大学で野球をやりたいと言っていると思う」と語るまでの転換点だった。
準決勝の東和学園戦も勝利、夢の甲子園まであと一つで立ちはだかるのは二松学舎大附。リリーフ登板時にはすでに点差をつけられ、さらなる失点を防ぐことを胸にマウンドへ。立ち上がりはスライダーが高めに浮くこともあり、危ないイニングもあったが、それでも、イニング間のキャッチボールで修正した。
常にブルペンで大事なことを一つずつ意識して投げていた宮路は、実戦の場で崩れても、そのポイントを確認すれば修正できるようになっていた。「今までは修正をやろうともしていなかったです」と宮路。崩れたら立ち直らず、そのまま大量失点で負けてしまっていた春までの姿はそこにはなかった。
強力打線・二松学舎大附相手に6.1回を投げ、1失点の好投。帝京戦だけではなく、計21回を投げ、3失点の好投。初めて投手として一大会通して活躍した大会となった。宮路は最後の夏で今までなかった「自信」というものをつかんだ。
現在も練習を続け、吉報が届く日を待つ宮路。下位であってもプロの道へ進む思いだ。今の意気込みを聞くと「1軍で活躍して、長くプロ野球でやっていたいですね。プロに入ってすぐ終わるのはすごく嫌なので。」と語った。
いろいろなことを考えながらも、結果が出なかったのは自信がなかったから。自信がなければ、自分の能力を発揮できない。その悪循環に苦しんでいた宮路は努力を重ね、成功体験を重ねながら、自らの意志で高卒プロ入りを決断した。
1つの成功を自信に変え、これまでのように一歩ずつ積み上げながらプロでの成功を誓う。
(インタビュー/文・河嶋 宗一)